下園和子さん(62・助産師)は、’07年に熊本市の慈恵病院で始まった「赤ちゃんポスト」に、産婦人科病棟師長として4年余携わった。しかし、「“姓名等不明”のまま預かれば、将来子供自身が苦しむことになる」と、その匿名性に疑問を感じて退職。’11年5月からは、同市の福田病院で、日本初の産婦人科による「特別養子縁組のあっせん」を手がけている。

 

「匿名を掲げる『こうのとりのゆりかご』(赤ちゃんポスト)は母親の側に立った制度。将来その赤ちゃんも親になり子供ができる。その子はきっと『僕のおばあちゃんはどんな人?』と聞くでしょう。そのとき、答えられない自分も悲しければ、答えてもらえない子も傷つく。生まれがわからないということは、孫子の代まで悲しみをもっていくことなんです」(下園さん・以下同)

 

こんな現実もある。

 

「残念ながら、赤ちゃんポストができたあとも、亡くなった赤ちゃんを遺棄する数は減っていません。それなのに、6年間で(赤ちゃんポストに)92件は多いと思います。匿名でいいポストがあったからこそ連れてこられた子供がいたのではないかと、考えてしまいます」

 

当時そう考えた下園さんは、できる限り、赤ちゃんを置いていく母親との接触を図った。『ゆりかご』の扉が開き、赤ちゃんが置かれると同時にアラームが鳴る。急いで外へ出ると、母親が歩いていたり座り込んでいたりする。そこで、声をかけてみる。

 

「会話してくれる方もいますが『なんで追いかけるの?』『匿名じゃないの?』と言われることも多かったですね。深追いはしない。声をかけるのは敷地内だけと決め『とにかく手続きしますからと、私のところに案内してちょうだい。後は引き受けるから』とスタッフに言いました。よく話したことで、再び自分で育てる決心をしてもらったこともありました」

 

だが、声かけ行動は看護部長とぶつかり、理事長からも直々に注意された。それでも、彼女は辞表を引き出しに入れたまま、子供の将来のためと母親への声かけをやめなかった。しかし、ストレスから、点滴を受けながら働くようになった。娘たちからの「もう辞めて」の懇願もあり、’11年3月慈恵病院を退職。同年5月、育児相談員として、福田病院の「地域連携室」に入る。

 

下園さんのおもな仕事は、地域連携室での“葛藤相談”業務。ここでは「子供を手放したい」という相談も受け付けている。その場合、母親と本当に育てられないのかを徹底して話し合う。実母もとことん悩み、葛藤することが必要だそうだ。

 

「母性が出ないまま、養子に出すのは危険だからです。その“揺れ”を経験せずに手放すと、必ず後で揺り戻しがくる。私はやはり、養子に出す悲しみ、つらさは、母親として味わうべきと思います。大事なのは、将来の子供の心。私たちは『あなたのお母さんは、そこまで悩んだけど、どうしようもなくて、養子に出すしかなかったのよ』と、伝えたいんです」

 

特別養子縁組とは’87年に創設された民法上の制度。血縁のない6歳未満の子供と、原則25歳以上の夫婦が、家庭裁判所の許可を得て、法律上の親子となる。しかし、悪質なあっせん民間業者も横行し、昨年5月、病院としては日本初のあっせんを福田病院が始めた。その後、医療機関の全国組織・あんしん母と子の産婦人科連絡協議会(あんさん協)が発足。全国計20の医療機関が参加した。

 

「バースセレモニー(養子縁組の際、養母が分娩台に乗り擬似出産する儀式)で、お母さんの上に赤ちゃんが乗せられ、肌と肌が触れると、お母さんは泣いて、何度も『ありがとうございます』と繰り返していました。ご主人も一緒に泣きだして。あんなに喜ばれるなんてね……」

 

下園さんの3人の娘たちも立派に成人。1人は医療関係の職に就き、また1人は母の医療データ集めを手伝ってくれることもある。7月には初孫が生まれる予定だ。まもなく、おばあちゃんになる下園さんだが、まだまだ現役を退く気はない。

 

「もしかしたら20年先は次の価値観で、私たちが今、やっていることは間違っていたと判断されるかもしれない。それでも、今は赤ちゃんの幸せを考えて、この瞬間、瞬間にいちばんいいと思うことを信じてやっていくだけです。昔はどこにでもいたでしょう、世話焼きばあちゃんが。ここで私がやります!」

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