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「39歳のときでした。背中に痛みがあり、寝違えたかなと思っていたら、骨軟部腫瘍という骨のがんでした。手術をして、その後2度の再発を経て7年がたちました−−」

 

東京都文京区の都立駒込病院。がん患者の「おしゃべりサロン」が開かれている。2010年、このサロンを立ち上げたのが、坂下千瑞子さん(49)だ。毎月第2金曜日、患者本人やその家族が悩みを打ち明け、情報交換を行う場である。会場はいつも笑いに包まれている。

 

冒頭のコメントは、坂下さんの話である。彼女自身が不安と絶望と迷いとともに、再発、再再発も乗り越えてきたがんサバイバーなのである。

 

坂下さんは、地元の大分医科大学を卒業後、東京医科歯科大学の第一内科に入局。夫の博之さん(49)とは同期入局の間柄だ。その後も同じ病院に派遣される。

 

「忙しい病院だったんですけど、彼とは仕事がやりやすかった。おたがい一緒にいていちばん楽チンな感じですかね」(坂下さん・以下同)

 

’96年、30歳になる前日に結婚。坂下さんは、血液のがん治療を専門とする血液内科医であり、博之さんの専門は呼吸器内科だ。夫婦共働きのなか、’02年に千博さん(14)が誕生。

 

そして翌年2月、それまで暮らしていた東京の住まいを引き払って渡米する。ペンシルベニア大学での研究者としても家庭人としても前途洋々のはずだった。病魔は、そんなときに襲ってきたのだ。

 

「私は日本で、自分の納得できる治療を受けたいと思いました。2歳半の娘のために、どんな難しい手術でも受けたかった。そのことを主人に言うと、即座に飛行機のチケットを取ってくれました」

 

かくして坂下さんは、金沢大学で11時間にわたる、TES(腫瘍脊椎骨全摘術)という術式の大手術を受けた。切り取った2つの骨の代わりに、チタン製メッシュの筒が入っている。筒の中身は、自分の腰から採取した骨を砕いたものだ。

 

「この治療を受けられて、ほんとうにありがたかったです。ここまでは先生にやってもらった。これから生きていくのは自分。“病気を治すのは私自身”だと実感しました」

 

やがて、金沢でのマンスリーマンション暮しから、実家のある大分に居を定めた。博之さんも、大分にある九州大学生体防御医学研究所にて研究を開始。ようやく一区切りがついたと安堵したが、それもつかの間、’06年6月の定期検査で再発が判明。こんどは腰椎と仙骨に腫瘍ができていた。

 

「しかも、場所的に手術は難しいと言われました。要するに『もう治らない』と宣言されたようで。がんは、再発したときのほうが絶望感に突き落とされます」

 

しかし、博之さんが重粒子線治療の存在を見つけてきた。8月から千葉の重粒子医科学センター病院で治療を開始。治療後は駒込病院でも抗がん剤治療をした。3週間は駒込病院に入院し、1週間は大分の自宅に戻るという入退院の半年だった。翌’07年、がんは2度目の再発をした。こんどは腰の別の場所。ふたたび重粒子と抗がん剤治療を受ける。

 

「このときはさすがに、いったい何度再発するのだろうかと、先のことがものすごく不安でしたね……」

 

現在はおおむね寛解といっていい。一昨年11月には、早期の大腸がんが発見されたが、内視鏡で切除。術後1年の検査も無事クリアした。

 

じつは坂下さんは、自身の闘病中に「笑い療法士」なる民間資格を取得している。これは、お笑い芸人のような笑いではなく、たとえば大変な治療を受けている最中でもクスッと笑えたり、一緒にいる時間を楽しめることで心を元気にする療法だ。

 

提唱者は「癒しの環境研究会」理事長・高柳和江さん。小児外科医としてクウェートで治療に当たったとき、同じ手術でもクウェートの人たちの治りが早いことに着目。彼らがアラーの神に絶対の信頼をおき、笑っていることが大きい理由と考えるに至った。

 

「その笑いの種が何であるかは個人で違うので、寄り添いながら、その人らしさを一緒に見つけていくというか。絶対無理ということも、人は案外できるんですよ。私も入院中にまったく食欲がなくて気持ちが悪いとき、娘が『おいしい〜』とパクッと口にしたものは、なぜか食べられたりして(笑)」

 

この資格の勉強を始めたころのことを坂下さんはこう語る。

 

「仕事も何もできなくなったとき、それでも自分にできそうなことはないかなと考えたんです。笑い療法士というものが、患者さんのつらさをちょっとでも笑顔に変えて、ほっとできる環境を提供できるなら、そういうことを勉強してみようかなと」

 

坂下さんは、医師としての仕事にも5年前から少しずつ臨床復帰。そのほかにも臓器移植コーディネーター、医学教育のカリキュラム作り。全国各地で講演する機会も増えている。

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