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「日中友好に生涯を捧げた父と母が愛した庭でしたから、若い世代の方々が、この庭を通じて、隣国や平和への関心を持つきっかけとなっていただければと願うのでございます」

 

兵庫県西宮市の武庫川女子大学附属中学・高校にある「日中友好の庭」。2月半ばの好天に恵まれた日の午前。庭の寄贈者で、同市在住の福永こ生さん(78・『こ』は樗の字の木へんが女へん)は、寒風に耐えるような木々を愛おしそうに見やりながら、みやびな響きをもつ美しい日本語で語り始めた。

 

「本当は、もっとカラフルなお庭なんですが、今は冬枯れの時期だけに、残念でなりません。ここの植木も庭石も、かつてわが家にあったものを寄贈させていただきました。中央のモミジは、父のいちばんのお気に入り。かつて父は日本の来るたびに、大好きな日本酒を嗜みながら眺めておりました。そして、白雲木。母が結婚して満州(現・中国東北部)に渡るとき、赤坂御所で貞明皇后(大正天皇の皇后)が、御自ら種をお拾いくださって『記念に満州に植えるように』と賜ったそうでございます。その種から育った木の孫木になります。ここに来ると、どの木や花を見ても父や母を思い出します。懐かしゅうございます」

 

こ生さんの父親は、中国・清朝のラストエンペラーであり、満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑さん。母親は、日本の天皇家と縁戚関係にある嵯峨侯爵家令嬢の嵯峨浩さん。

 

つまり、こ生さんは、あのラストエンペラーの姪であり、幼少のころには満州国の正統な皇位継承者として、2番目の皇女を意味する「二格格(アルゴーゴー)」と呼ばれていた。

 

しかし、敗戦で運命は一変。5歳のこ生さんは、そのまま母と、内戦下の中国大陸6,000キロを1年5カ月もの間、流転。命からがら日本に帰国できたときに、憧れたのは「普通の生活」だった。

 

やがて結婚して母となり、両親亡きあとも、その遺志を継いで日中親善に努め、時代の語り部として生きてきた。また、日本の皇室との交流も続いている。

 

「昨夏も、毎日書道展で溥儀や溥傑の書が特別展示されて両陛下にお会いしたとき、父の話になりました。天皇陛下が’92年の初めての中国訪問時をふり返られて、『北京では、溥傑さんにたいへんお世話になりました』と語られ、皇后さまも『心のおきれいなお人でしたね』とおっしゃられて。父からは、そうした話は聞いておりませんでしたので、初めてうかがって、とてもうれしゅうございました」

 

’07年、夫の死を機にそれまで住んでいた西宮市内の一戸建てを引き払い、こ生さんは同じ市内のマンションへと移った。ピアノや家具などの大半を、幼稚園や福祉施設に寄付し整理した。

 

「唯一の心残りが、庭でした。嵯峨の家の家紋にもなっている連翹、父のモミジ、そして白雲木などなど。この庭だけはなくしてはいけない、と思ったのでございます」

 

そんな庭は、末娘の母校で、中国との交流もあった武庫川学院に寄贈され、「日中友好の庭」となった。?生さんは、一本の木にまつわるこんな思い出を語った。

 

「’92年の両陛下とのお食事会のとき、まだご結婚前の紀宮さまもご一緒でした。赤坂御所のお部屋の前に、ここの白雲木の元木があるとのことで、紀宮さまは、『花が落ちたら、白いじゅうたんのようになって、とてもきれいなんですよ』と、お話しくださいました。今、その部屋には愛子さまがおられるとうかがっております」

 

皇室との交流は世代を超えて続き、皇太子ご夫妻とお会いになったのも去年の夏。やはり、花にまつわるエピソードがあった。

 

「皇太子さま、雅子さまが夏の甲子園の百周年記念大会にご出席されるためこちらにいらした際に、お会いできました。その数日前に、わたくしが両陛下と懇談させていただいたことをお聞きになっていたのでしょう。お会いになったときにまず、『(両陛下に)お会いになっていたのですね』と、お聞きくださいました。わたくしは、『はい』と申し上げてうなずくばかりでしたが。そのときに、白雲木のある庭や『日中友好のアサガオ』のお話もさせていただきました」

 

日中友好のアサガオも、戦後、生死も定かでなかった溥傑さんの消息がわかり、’61年に再会するときに、浩さんが日本で種を買って中国に持参したものがもととなっている。

 

「北京の自宅で両親が丹精込めて世話をして、縁の白い赤紫の花を咲かせました。母亡きあとも、父が7年間、一人で水をあげたり、種を収穫していたものです。その父も亡くなったあとは、わたくしが両親の思いを受け継ぐかたちで育て、ご縁のあった方に種をお配りしています。すでに日本各地だけでなく、中国の日本人学校などでも育っています。昨夏は、採れたばかりの種を、皇太子さま、雅子さまに、お礼状とともに遅らせていただきました。もちろん、その前には、皇后さまにもお送りしております」

 

一輪の花が国境を超え、時を超え、横たわる大河にかかる橋のように、人と人とをつないでいく。

 

「国同士は難しいことがあっても、人と人は別ですね。父の好きだった『相依為命(あいよっていのちをなす)』の言葉どおり、時代が変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば、共に生きていけるのでございます」

 

まもなく、厳しい冬が終われば春が訪れる。木々は緑の葉を茂らせ、花は色とりどりに咲いて、また誰かの心を温かくしてくれる。

 

※本誌3月5日号に掲載された同記事の、60ページ、63ページ上の写真は、関西学院大学提供のものでした。お詫びいたします(編集部)

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