8月末。滋賀県草津市の「草津クレアホール」では陶芸家の神山清子さん(83)と長男・賢一さんによる親子展が開催されていた。
「ここに展示してるんは、ぜ〜んぶ穴窯で焼いたもの。でも、同じ土、窯で焼いてても、それぞれたき方が違うから……、ほら、見て。色も光沢もみな、全然違うやろ」
御年83歳の神山さんは、女性陶芸家の草分け。日本六古窯に数えられる“焼き物の郷”信楽で本格的に作陶を始めたのは、もう半世紀以上も前のことだ。自宅に「穴窯」と呼ばれる半地上式の窯を築き、釉薬を使うことなく光沢ある陶器を焼き上げる古の製法『信楽自然釉』を復活させた。
現在放送中のNHK連続テレビ小説『スカーレット』も、信楽を舞台に、男性中心の焼き物の世界で、女性陶芸家が自らの道を切り開いていく物語。戸田恵梨香演じる主人公・川原喜美子の人物像、そのヒントになったといわれているのが、神山さんだ。
「ああ、これは賢一くんの作品や」
会場の真ん中に、少し毛色の違う作品が並んでいる一角があった。玉虫色に光り輝く茶碗を眺めながら、神山さんはしみじみと続けた。
「これは賢一くんの耀変天目茶碗。どれも色がいいやろ。外国の人にすごい人気。あのまま生きてたら、いい陶芸家になったと思う。世界的な作家になったんと違うかな」
母の背中を追うように、陶芸家を志した長男・賢一さん。それは、彼が29歳の誕生日を迎えた直後、’90年2月のこと。作陶中、賢一さんは突然倒れた。担ぎ込まれた病院で検査を受けた結果、医師が母親に告げた病名は、慢性骨髄性白血病だった。
「もちろんショックでした。でも、予感もあって。賢一くんは年末から咳が止まらなくて、38度弱の熱も続いてた。本人は『風邪や』って地元の病院行ってたけど、全然治らん。そのうち、顔色も白くなって目に力も入らんようになって。母の友達で白血病で亡くなった人がいて、その人のことを思い出してこれ、ひょっとしたら……そんな思いがどっかにあったんです」
医師は「助かるには同じ白血球の型、HLAを持つドナーからの骨髄移植しかない」と説明した。同じHLAを持つ確率はきょうだいで4分の1。残念ながら賢一さんと姉は適合しなかった。こうなると、他人から提供してもらうしかないが、その場合、適合するのは数百人〜数万人に1人……。医師は神山さんに「息子さんの余命は2年半ほど」とも告げた。
その年の夏、賢一さんの知人らが「神山賢一君を救う会」を結成、ドナー探しと募金活動を開始した。さらに市民団体などが協力し、「神山賢一君支援団体連絡協議会」も発足。2つの団体は賢一さんだけにとどまらず「ほかの患者のドナーも探そう、骨髄バンクの早期実現を訴えよう」と運動を展開。その様子は連日、マスコミをにぎわすほど、大きな広がりを見せた。
そして、母は息子にこう伝えた。
「人は生きてる間に何を残すかや。賢一くんには陶器がある、動ける間は作れ、手伝いは私がする。それとな……たくさんの白血病の患者さんがいて皆、泣きながら闘病しとる。その人たちのためにも賢一くん、先頭切って走らんと」
母子は、運動を広めるため全国でチャリティ展を開いて、各地で骨髄バンクの必要性を訴え続けた。そのかいあって、わずか4カ月で約3,000人のドナー希望者が集まった。しかし、賢一さんと適合するドナーは見つからなかった。
「いまは国が負担してくれる血液検査の費用も、当時は個人負担やった。『救う会』が払えんようになって解散した後も、私が全部、作品を売ったお金で払ってた」
翌’91年1月には、東京で「骨髄バンクと患者を結ぶ会」が結成され、賢一さんが会長に就任した。母子は骨髄バンク運動の先頭を走り続けたが、同年6月、賢一さんは高熱を発し再入院。診断の結果、白血病は急性に転化。残された時間はさらに少なくなっていた。
「完全に適合したわけやないけど、私の妹が移植を名乗り出てくれて。これに懸けてみようと思った」
10月に行われた移植手術は無事成功。賢一さんは少しずつ元気を取り戻していった。病院には賢一さんと同じ白血病の子どもたちの姿もあった。病室のベッドから無邪気に手を振る3歳や4歳の子どもたち。
「賢一くん、自分のことでは泣かへんのに、その子らを見て、泣いたんや。『自分は30年も生きてこれた。でもあんな幼い子が死ぬなんてあんまりや。治ってほしい、生きてほしい』って」
その年の12月、待望の知らせが届く。日本初の公的骨髄バンク「骨髄移植推進財団」が設立されたのだ。ビッグニュースに賢一さんもうれしそうで、顔色も心なしかよくなったように見えた。このぶんなら春には退院も、そんな期待を抱かせもした。しかし……。年が明けて’92年。間もなく31歳の誕生日という2月初旬に、賢一さんの白血病が再発。
「泣きませんでしたよ。泣けるいうんは余裕があるってことや。私、そこで、パチンとスイッチ入れた。決めた。死を前にして、賢一くんは今、生きてる人間として、パシッとせなって。それで『親子そろって献体しよう』と提案してん。賢一くんも快諾してくれて、病室で2人で申込書にサインした」
日中、信楽で作陶し、夕方には名古屋の賢一さんの病室を訪れる、そんな毎日が続いた。神山さんは息子の足を洗ってあげてから、眠りにつくまで子守歌を歌って聞かせるのが日課となった。前年暮れに発足した骨髄バンクからは、賢一さんに適合するドナーが現れたという連絡はなかった。
「間に合わないのは、もうわかっててん。息子もわかってたと思う。だけど、誇りを持てることが大事やから。賢一くんな、死ぬ間際に笑ってこう言わはった。『これで、あの子たちは助かるよね』って」
’92年4月21日。賢一さんは神山さんの子守歌を聞きながら、旅立っていった。31歳だったーー。
賢一さんは同じ陶芸家として、母も一目おく才能の持ち主だった。
「でも、男としてはどうかな。人前でニコリともせん、偏屈やった」
神山さんはこう言って笑った。母子は最後の病室で、泣かないこと、言うべきことはちゃんと言っておくこと、などなどいくつか約束を交わしていたという。
「とくに、私が気にしたのは恋人のこと。もし、そういう女性がいるなら、隠さず言うてくれ、伝えたいことはちゃんと伝えたるから、そう話しててんけどな……」
ここまで話した神山さん。急に声のトーンを上げた。
「それが今年、来てん!」
驚く記者に、彼女はうれしそうにことの顛末を説明し始めた。今年春、窯場に50代後半の女性が訪ねてきた。作品の販売もしているので、神山さんは「てっきり、お客さんやと思うてた」という。
「その人、賢一くんの天目茶碗をじっと眺めたと思ったら、急に泣き始めて。それも大号泣。事情を聞いたら、なんと賢一くんのこと好きで『退院したら結婚して』とプロポーズしてたんやて。賢一くんからは『余命短い僕には無理や』と断られたそうやけど。なんでも、次の朝ドラのニュースを聞いて、『居てもたってもいられなくなって』と言うてたわ。いや、驚いた。あの偏屈を『好きや』言うてくれる女の人がおったなんてなあ」
こう言って、神山さんは声を上げて笑い始めた。
「いや、本当びっくり。私にとっては朝ドラなんかより、こっちのがよっぽど、大ニュースや」
うれしそうに笑う彼女の目に、光るものが浮かんで見えた。