朝9時半から午後7時まで新橋・SL広場に座り続けて、子供5人、孫8人を育てた靴磨き職人の中村幸子さん(89)。その半生は決してラクなものではなかったが、それでも「人生いいことのほうが多いというのも本当」と話す。
19歳のとき家出同然で上京した中村さん。荷物を盗まれ、10円のコッペパンで飢えをしのいで上野の闇市へ行き、おでんの屋台で働くようになった。しかしいつまでたっても給料は支払われず、既婚者である店主の子供を身ごもってしまう。そして、子供を抱えて行商生活へ。その後浅草の靴職人と結婚し、長女を出産するが、赤子にまで暴力をふるう夫の姿を見て離婚を決意。母一人子二人の生活が始まった。
離婚後、再び行商を始めた中村さん。ある日、公園で稼ぎを数えていると、そこへ酔った男たちがやってきて金を奪おうとした。
「そのとき助けてくれたのが、7つ年上の主人。驚いたのは、足が不自由でつえをついていたのに、暴漢たちを追い払ってくれたんです」
中村さんは、夫となる男性、薫さんに尋ねた。
「お酒は飲みますか」
「僕は甘党。おはぎなら10個は食べるけどね」
このひと言で、結婚を決意した。やがて3人の子供が生まれ、そこに義母も同居して、8人の大家族となった。
「主人は経理の仕事をしていましたが、足が不自由なうえに糖尿病で、十分に働けなかった。家族を食べさせるため、自然に私が働くことになりました。義父や、行商で知り合ったお巡りさんから靴磨きをすすめられたのは、そんなときでした」
しかし、すぐにこんな不安も頭をもたげるのだった。
「えっ、女の私が靴磨き……それが正直な気持ち。やっぱり最初に頭をよぎったのは、恥ずかしいという思いでした。主人に、『なんで私が』と、つい責めるようなことも言いました。でも、体の不自由な主人は、聞くしかないんですね。その悲しげな姿を見て、『よし、私が働こう』と思い直すんです。その繰り返しで、今日まできました」
中村さんが新橋で靴磨きを始めたのは、まもなく40歳になる春だった。しかし、10年後、夫の薫さんが肺がん亡くなってしまう。
「もともと経理をしていたから、安心して家計も任せていたけど、死んで残ったのは貯金どころか借金だった。やっぱり、男の人はやり繰りは苦手なんだね」
苦笑する中村さんだが、育ち盛りの子供を5人も抱え、早朝から深夜まで働いたこのころが、心身も家計もいちばんきつかったという。
「2度目の結婚をするときに思い描いていた、エプロン姿で台所に立つお母さんにはなれなかった。あるとき、子供たちを連れて故郷の浜名湖に行きました。頭のどこかでは心中するつもりだったんでしょう。すると、勘のいい下の娘が、その日に限って、『お母さん、おなかすいた、寒いよ、帰ろう』と、しきりに私の手を引くんです。それでハッとして、思いとどまりました」
また私が働くしかないと、新橋に通い始め、今に至る。8年ほど前、料金が現在の500円に定着した。今後も値上げするつもりはないと言う。
「靴を磨きにくるサラリーマンの人も、住宅ローンを抱えていたり、子供の教育にお金がいちばんかかる大変な時期でしょう。私はもう年だし。お金を墓場までは持っていけないしね。子供が5人で、孫は8人。先日も、その孫の一人が、ここ新橋まで来て、私の仕事ぶりをじっと見てるんですよ」
その孫は言った。
「おばあちゃんは、元気だから、働いてるのがいいね」
中村さんは、心からうれしそうに言う。
「その子の親たちは、私が靴磨きをしてることで、学校でもイヤなこともあったと思います。私自身、『新橋へは来るな』と言い聞かせていました。それを思うと、今、家族が私の仕事を認めてくれているのは、本当にありがたいことなんです」
家族の存在があったから、どんな苦労も我慢できた。
「お金を払わずに立ち去る人もいたし、脇に置いた売り上げの4万円をそっくり盗まれたことも。でも、人生、いいことのほうが多いというのも、本当」
近所の中小企業の社長は常連の一人だが、かつて靴を磨いてもらいながらこんなことを言った。
「おばさんに靴を磨いてもらったおかげで、社長になれたよ。おばさんの名前の“幸”は、人を幸せにする幸なんですね」
そして、今年春のこと。
「その社長さんが、部下の若い人に社長命令で『おばさんのところで靴でも磨いてシャキッとしてこい』なんて言ったそうなの。ほら、今、コロナで営業の人もなにかとたいへんだから」
実際に、その若者はやってきた。丹念に靴を磨き終えると、中村さんは彼に向かって言った。
「頑張ってね。私も、まだまだ頑張るから。靴もきれいになったし、うん、大丈夫!」
また来ます、と笑顔で立ち去るフレッシュマン。中村さんが靴磨きの最後に必ず添える「大丈夫」の声に、この半世紀、多くのサラリーマンたちが励まされ続けてきた――。
(撮影:田山達之)
「女性自身」2021年4月20日号 掲載