広々としたホールで、何人もの高齢者がのんびりとテレビを見てくつろいでいた。
ここは、熊本県宇城市三角町の特別養護老人ホーム「豊洋園」。そのホールの中央を、白衣姿の老医師がスタスタと歩いていく。白衣の下のブルーグレーのワイシャツの襟元には鮮やかな七宝焼のループタイ。なかなかのオシャレさんだ。
と、それまでテレビを見ていた老婦人がすっと立ち上がる。
「先生、先生」
そう声をかけながら、曲がった腰を伸ばし伸ばし歩み寄る老婦人に、老医師も優しい笑みを向けた。
「元気ですかね?」
老婦人は、まるで仏様に祈るように手を合わせ、老医師の手を握りしめると、何度も何度も頭を下げた。目には涙が光っている。老医師とは顔なじみの島民のようだ。
佐藤立行先生は、三角町の戸馳島(とばせじま)に内科医院「佐藤医院」を構える現役医師だ。かくしゃくとした姿からは想像もできないが、5月6日に94歳を迎えたばかり。姿勢もよく、足どりも軽やかだ。
佐藤医院での診療のかたわら、火曜と金曜の午後は、豊洋園の嘱託医として入所者の健康管理を担っている。その日は、定例の往診のほか、施設で働く若いスタッフに新型コロナウイルスワクチンを接種するため、園を訪れていた。
園の高齢者やベテランスタッフは接種をすでに終えている。佐藤医院の事務・西村絹子さん(70)がそっと教えてくれた。
「先生は、町の防災センターでの集団接種のほか、豊洋園では、これまで300人にワクチンを打っています。先生は『最後のお役目』と言っていますが、94歳でできることではありませんよね」
ホール奥の会議室で、ワクチン接種が始まった。今回の接種は30人。予診票を丁寧に見て、「はい」と声をかけると、佐藤医院に勤める看護師の松川多惠子さん(74)が、注射器を手渡す。
一連の動作が実にスムーズだ。初めてのコロナワクチン注射に緊張ぎみだった園のスタッフが、注射の針が抜けた途端、驚いたように声をあげた。
「全然、痛くない!」