■店のなかに身を隠して、通学する同級生のはしゃぎ声を聞いた少女時代
「生まれたのは母の実家があった大阪の西成です。その後すぐに下関へ行ったようです」
小3のとき、両親は離婚。大阪・西成の母の実家に戻ると生活は一転、苦境に立たされた。母は再婚したものの、再婚直後に継父が脳卒中で倒れ、働けなくなった。その後、弟も妹も生まれて生活は苦しくなる一方だった。
村田さんは、いくつもの内職をして家計を支える母を自然と手伝うようになっていた。
「小学校も休みがちでしたが、先生が『卒業証書だけもらっときや』と言って、卒業式だけは出たのを覚えています」
中1の終わりに酒店に住み込みで働く話が出て、村田さんの中学生活は1年弱で終わってしまう。
「それでも中学生活はほんま楽しかった。無駄話をしていたら、先生のチョークが飛んできたり。私は負けん気が強かったので、男子を泣かせて、バケツを持たされて、廊下に立たされたり(笑)」
ずっと笑顔で話していた村田さんの表情が、ここで突然、曇った。
「酒屋の仕事はビールの箱詰めをしたり、自転車で配達したり、まだ1歳にならん店の子の子守。でもほんまにつらかったのは仕事より何より、朝の通学時間やわ……」
言葉が途切れ、みるみる涙がこぼれだした。それまで通っていた中学校は奉公先の酒店の目の前だった。通学時間になると、先日まで机を並べて一緒に勉強していた同級生たちが次々と校門へ入っていく。その楽しげなはしゃぎ声が、村田さんの耳に響いた。
「うちは自分の姿を見られぬよう、店のなかに身を隠して、校門が閉まってから外の掃き掃除をしていました。それでも、学校が終わると、友達が面白がってか、うちが働いてるのをのぞきに来る。それが嫌で嫌でねぇ」
結局、酒店は1年弱で辞め、堺の学生服の店で2年、住み込みで働いた。実家に戻ってからも、昼はミシン工場、夜は母の内職の手伝いという日々が続く。
継父が花街の働き口を持ってきたのは、16歳のときだった。花街の見習いに入れば、前金がもらえる。そう聞かされて、花街が何かも知らなかった村田さんは、「行くよ」と答えた。
血相を変えたのは、母だった。ふだんは絶対、夫に逆らわない無口な母が、猛然と反対したのだ。
「それで花街の話は立ち消えになったんです。あのとき花街に出ていたら、私の人生、どんなだっただろう。やっぱりお母さんは、私の……お母さんなんだと思います」
再び村田さんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。何歳になっても、多感な少女時代のやりきれなさ、悔しさは簡単には拭えない。
「母には感謝しましたね。私の名前は、母の十三子(とみこ)の“十”をもらっているんですよ」