「マンガを描いていれば幸せでした」と語る水野さん 画像を見る

漫画家・水野英子さん(81)といえば、女性が描く少女漫画のパイオニアだ。

 

代表作は『白いトロイカ』『ファイヤー!』『星のたてごと』など、どれも当時の先進的なテーマばかり。そんな水野さんは駆け出しのころ、手塚治虫、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、寺田ヒロオといった昭和を代表するマンガ家が青春時代を過ごした「トキワ荘」で暮らした。研鑽を積み、その後「赤塚不二夫、石ノ森章太郎と合作で、少女マンガを描きませんか」という依頼を引き受け、迷わず引き受けた。

 

「いまでこそ少女マンガの描き手は女性という認識ですが、当時は男性が描いていたんです」

 

そんな水野さんだが、トキワ荘を出たあと、人気シリーズを数多く手がけつつも思いもよらない逆風にさらされたこともある。『女のくせに生意気だ』という視線は、少なからずあったというのだ。

 

■著作権の勉強会の影響でヒット作は打ち切り。未婚の母になったことに後悔は一度もない

 

7か月過ごしたトキワ荘で十分実力を蓄えた水野さんは、その後、次々に話題作を発表していく。

 

60~62年、『少女クラブ』(講談社)に描いた『星のたてごと』は、少女マンガで初めて、男女の恋愛を描いたと、話題になった。

 

「女性には、タブーだらけの時代です。『女のくせに』『女はこうあるべき』という圧力を常に感じていましたね。なぜ、男性に許されることが、女性は許されないのか、それが不思議で不満でした。少女マンガで恋愛はご法度。男女の手が少しでも触れ合うとか、スカートがめくれる程度でも描き直しを命じられたものです」

 

64~65年には、『週刊マーガレット』(集英社)で、帝政ロシアを描いた少女マンガ初の歴史ロマン『白いトロイカ』を発表。その後に続く歴史マンガの礎となった。

 

衣装も斬新だった。昔の男性作家が描くヒロインは、常に同じ衣装で着たきりだ。しかし、水野さんはキャストによって、ドレスや衣装を絶妙に描き分ける。衣装でもキャラクターを表現した第1号のマンガ家だったのだ。

 

その後の『ブロードウェイの星』では、アメリカを舞台に、人種差別問題やベトナム戦争など、当時の社会的テーマを重層的に描いた。69年、ロックミュージックとカウンターカルチャーをテーマに、『週刊セブンティーン』(集英社)で『ファイヤー!』の連載を開始。当時の洋楽界を席巻したジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンの「現体制をぶっ壊す」という強烈な思想に共感した水野さんは、アメリカやヨーロッパで取材をし、怒濤のように描き続けた。

 

人気投票は常にトップ。70年、小学館漫画賞を受賞する。水野さんは31歳。いつしか少女マンガのパイオニアとして若い世代に慕われる存在になっていた。水野さんはマンガ家を目指す少女やファンが、いきなり自宅に訪ねてきても家にあげ、おおらかに対応する姉御肌。新人からもさまざまな相談ごとを持ちかけられた。

 

マンガ人気の高まりとともに、マンガ家を取り巻く状況が大きく変わり始めた時期でもあった。

 

「雑誌社は当たりそうなテーマとノウハウで、マンガを量産するようになりました。そのために、描ける新人を安価なギャラで囲い込む。ところが『よその雑誌に描いてはダメ』と言いながら、その後の仕事がありません。新人は大勢出ましたが、デビューしても生活できない人が多かったのです」

 

まだ、著作権の考え方が普及していない時代だ。水野さんも、赤塚やちばてつやから著作権の意味を初めて教えられ、驚いたという。

 

「著作権を知ることは、とても大切なことだと思いました」

 

そこで、ごく親しい友人に声をかけ、自宅で著作権勉強会を開くことになった。

 

5~6人の仲間で、赤塚らから話を聞くだけのつもりが、集まったマンガ家は30人を超えていた。

 

「みんな同じ不安を抱えていたんでしょう。家の居間はあふれんばかりの状態でした」

 

ところが後日、この勉強会のことが雑誌社に漏れ伝わり、首謀者は水野さんと決めつけられた。

 

「労働組合を作って、雑誌社に圧力をかけようとしたと捉えられたようです。参加した人は皆、編集に相当絞られ、マンガ家をやめた人もいました。フリーの仕事の私たちに組合なんて作れるわけがなくて。ただの勉強会だったんです」

 

水野さんの『ファイヤー!』も突然、連載が打ち切りになった。

 

「多分、勉強会が影響していたと思います。結局、女がやったから『生意気』ということ。でも、私は悔いていません。男女関係なく権利を主張できる社会になるための先駆けになれた。マンガ界の役に立てたという思いがあります」

 

連載終了後しばらくして妊娠に気づく。

 

「うれしかったです。私にもようやく人間らしいできごとが訪れたという思いが込み上げてきました」

 

72年3月、未婚のまま出産。シングルマザーへの世間の風当たりはいまとは比べものにならないほど冷たく、厳しかったが、水野さんは右手にペン、左手に乳飲み子を抱いて描き続けた。

 

「でも、長男が物心つくまで、長編連載は断念し、短編や短期連載でしのぐしかありませんでした」

 

収入は最盛期の4分の1まで落ち込んだ。

 

「ただ、子どもを持ったことを後悔したことは一度もありません。作風も変わりました。以前は激しく切り捨てるような描写もしていました。ですが子どもと向き合って、全てをゆったりと受け入れるしかないんだなと気づいたのです。日が昇り、日が沈む、ありのままに、自然のままに(笑)」

 

とはいえ、仕事で妥協しない姿勢は微動だにしていない。

 

86年から『別冊婦人公論』で連載を開始した『ルートヴィヒII世』では、ドイツまで3度、自費で取材に赴いた。ライフワークという思い入れもあったが、連載途中で雑誌が休刊。それでも水野さんは屈しない。

 

「自分にしか描けないテーマと筆致がある」

 

そう信じて、00(平成12)年ごろからしだいに自費出版にシフトしていった。

 

10年には、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞した。

 

「いまでもやりたいことは山ほどあります。プロットが入道雲のように頭のなかに湧いてくる。マンガ家とはそういうものです。描いていれば幸せという人にしか、マンガ家は務まりません」

 

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