「つっぱり棒」作る3代目社長 夫婦二人三脚で業界トップを守る
画像を見る 夫と出会ったことが「一番の収穫かも」と竹内さん

 

■「いま振り返ると、ただただ虚勢を張っていた」と竹内さん

 

「短い記者生活のなか、もしかしたらいちばんの収穫かも」 こう言って竹内さんはガッツポーズでおどけてみせた。

 

県庁担当の記者だった竹内さんには運命の出会いがあった。記者仲間から誘われて顔を出した県職員との食事会。そこにいたのが、のちの夫・一紘さんだったのだ。

 

「私も変わり者ですけど、彼もそうとう変わっていて。県の職員なのに、革ジャン姿で県庁に出勤してましたから(笑)」

 

建築士の資格を有し、建築課に勤務していた一紘さん(41)。彼の先輩が「電話番号、交換せいよ」とお節介を焼いたことから、2人は急接近し、交際するように。

 

「交際中、彼にも『自分は記者の仕事に向いてない、つらい、メンタルやばい』と伝えてました。でも、辞めて親の会社に転職するって、なんだか負けな気がして、踏ん切りがつかなかった。そのとき、彼が『そうまでして続ける必要ない』と言ってくれて。『やりたい仕事を探し求める転職もいいけど、請われて入る会社の枠の中で、自分のやりたいこととの重なりを見つけてみたら』ってアドバイスも」

 

未来の夫に背中を押され、竹内さんは新聞社を退職し、平安伸銅工業に入社。26歳のときだった。27歳の誕生日の目前に、一紘さんと結婚もした。気持ちも新たに、新しい職場に足を踏み入れた竹内さん。だが、最初は戸惑いも大きかった。

 

「新聞社時代は、わりと皆でガヤガヤ議論しながら仕事してたんです。それが、当時のこの会社は、なんて言うか、静かなんですよ。皆、粛々と淡々と自分の仕事をしてる、そんな感じで」

 

そこには、おそらく当時の社長の経営方針も多分に影響していた。

 

「この業界も価格競争が厳しくて。体力の弱い中小企業には多角化や新ビジネスに投資をする余裕もありませんから。父は新商品開発など不確実なことにお金を使わずに、既存の製品のマイナーチェンジやコスト見直しを繰り返して。すでに業界の中で認知されていた『つっぱり棒は平安伸銅』というポジションだけは守るという方針を立てていたんです」

 

理屈としてはわかるけど、と竹内さんは思った。父の苦労のかいあって、社の業績は黒字を維持している。でも、現状維持を第一義に掲げたそのやり方では、ジリジリと会社は追い詰められていくのではないか。まだ20代の自分や、働いてくれている社員たちの未来は決して明るくないのではないか。

 

「だから、変化が必要だと痛切に感じていました。それで父に直談判も。でも、父は『焦るな、しばらくは黙って見とけ』と。たしかに、私は入社したばかりで何もわかってませんでしたから。父の言葉は正しかったと思いますが……」

 

不安を抱えたまま迎えた2年目。康雄さんの病状がふたたび悪化。竹内さんは社内の意志決定や銀行対応など、父に代わって大きな責任を伴う仕事を担うように。

 

「記者時代も疲弊してましたが、このころもつらかった。コンロの火をつけたまま家を出てしまったり。もう、胃に穴があきそうでした」

 

疲れ果ててはいても、変革の必要性は強く感じていた。そこで、開発と営業、それぞれの担当者が一堂に会する開発会議を定期的に開催することを提案。少しずつ新たな試みをスタートさせていくが、守りに徹することに慣れた社員たちから、攻めの企画は出てこない。

 

「たとえば『長さ10cmのつっぱり棒』といったような、既存の商品の延長線上のアイデアばかりで。『4P分析も知らんのか!』『新規事業や、こんなフレームで分析出してこい!』なんて感じでネットから拾ってきた言葉で、メンバーのお尻をたたき続けました。私自身まともにやったこともないくせに。『お前がやれ!』って皆、心の中で怒鳴り返してたはずです」

 

イライラばかりが募って、竹内さんが自ら社に引き入れた若いスタッフを会議中に罵倒し、辞められてしまったこともあった。

 

「いま振り返ると、肩に力が入りすぎてました。女性だからとなめられたくないとか、経験もないのに意志決定する立場にいる気負いとか。ただただ虚勢を張っていたんだと思います」

 

それでも、15年1月1日。竹内さんは社長に就任。健康を回復した父は会長職に就いた。

 

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