『地球の歩き方』40年編集者の“作り方”伝説「中国に自由旅行がなかった頃…」
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■“迷い方”と呼ばれても徹底し続けた現地取材

 

スマホはもちろん携帯電話もない“昭和”の取材や編集はどのようなものだったのだろうか。

 

「ノートパソコンはなく、すべてがアナログ仕事の頃。ひたすらメモを取りまくっていました。たとえば飲食店のメニューは今だったらスマホで撮ってしまうだけでOKですが、そうはいかないわけで。帰りのフライトでは、大量の紙の資料を抱えるのがいつものことでした。特に気を遣っていたのが写真のフィルム。X線検査のときにはヒヤヒヤしてしょうがなかったですね。

 

そうした苦労の一方、地球の歩き方ならぬ“地球の迷い方”、“地球の騙し方”と揶揄された時代でもあります。当然Googleマップのような便利なものはなかったですし、大通りの地図は入手できても、小道の地図は手に入らないといったことが多々ありました。そんなときには歩測をして、手書きの地図を作成したりしました。

 

読者投稿も今よりはるかに多かったです。今では読者投稿の信憑性を確認してから掲載しますが、当時は投稿をくださった方のリアリティを生かそうと、原文にできるだけ近い文章を掲載していました。そのためたまたま運良く経験したことも、そのまま本に掲載され、誤解を生んでしまうこともありました。『迷ったら迷った先で、思いがけない出会いがあったりするのが旅だ』、なんて割り切って旅する読者の方も多く、そうした方がまた新しい情報を寄せてくれて、本当に助かりました。

 

友の会が主体となって作っていた本だったからか、“キミ”と“ボク”という言葉が文中でよく使われていて。その言葉が象徴するように、まさに旅人同士の仲間といった距離感、雰囲気の中で作っていましたね。だからこそ、旅の温度感が伝わるような内容は、最近のものより多かったかもしれません。今はガイドブックとして正確さをなにより重視しており、再現性のない情報や主観ばかりの話は絶対に掲載できないですから」

 

読者の裾野を広げるとともに編集方針も徐々に変わっていった『地球の歩き方』だが、変わらず大切にし続けていることもある。それが“現地取材”だ。

 

「地球の歩き方が長い間応援いただけている秘訣かなと思うのが、現地取材を徹底していることです。

 

改訂時の確認作業を、現地の人間に任せて行う方法もあるでしょう。でも地球の歩き方は1〜2年ごとに改訂を行う際、必ず制作スタッフ自らが現地を訪れます。現地の人にも協力をしてもらいますが、それだけだとどうしても日本から旅立ち、日本へ帰る旅行者の視点が薄くなってしまいます。長く現地に住んでいる方にとっての当たり前が、日本人旅行者にとっての当たり前ではないことも多い。日本人旅行者として、驚くこと、おもしろいこと、その視点を絶対忘れないために、そしてそれが読者にとってより良い本になると信じて、私たちは取材を行っているのです。

 

実は私以外にも長く携わっている制作者は多くて、80年代から作り続けている人だけでも10人近くいます。担当している国や地域には基本年1回以上のペースで訪れるので、それぞれに何十年分もの蓄積がある。その歴史も編集室の財産かなと思います。

 

ちなみに表紙のイラスト、装丁デザインも、創刊からずっと日出嶋昭男さんなんですよ! カラーリングやタイトルの斜体とともに、あのイラストは『地球の歩き方』の目印になっているのではないでしょうか。

 

また、昔は『じゃあ来週バリに行ってきて』といったテンションで、急に海外へ飛ばされることもありました(笑)。今では高級ホテルへの取材など、事前に必要な段取りも多いので、1カ月ほどの計画期間が設けられるようになりましたが。

 

そうした準備を行ったとしても、大変さを避けては通れないのが食事モノ。多いときは1日朝昼晩合わせて8食になることもあります。私が担当を続けているオーストラリアは特にキツくって。名物が肉料理なので、1日に2,3回ステーキを食べることもあります(笑)」

 

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出典元:

WEB女性自身

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