■母は2度代わった。3人目の母の愛で、人の痛みに寄り添う力を得た
市川さんは1967年(昭和42年)8月22日、山口県小野田市で生まれた。父親は外国航路の機関士で、ほとんど不在だったという。
「母はアルコール依存症で、私は幼稚園から自分でご飯を炊いてました。虐待もすさまじく、5歳で母が自殺したときは、正直、悲しいよりホッとしてました。生母の死をきっかけに、島根県出雲市の父方の実家に引き取られます。その後、2番目の母にも虐待されました。小6で今の3番目のお母さんが来てから、父の分もしっかり育ててもらえたんです。母は71歳で、今も私の支えです」
19歳のときに名古屋で一人暮らしを始め、ファッション系の専門学校へ進学。卒業後、奈良市で結婚し、長男長女にも恵まれた。そして10年1月に、夫婦でイベント会社「いち屋」を始めた。
奈良市内の事務所には、所狭しと、町内の祭りで使われるようなグッズが山積みになっていた。
「イベントも、日本中がコロナで軒並み中止とか延期になったでしょう。うちの商売も大打撃です。それもあり、今年から新たに学生食堂の運営も始めたんです」
毎日、ランチの時間帯には、奈良佐保短期大学(奈良市)で“学食のおばちゃん”となって働く。
「月曜から金曜まで、早朝から午後2時ごろまで学食での仕事。その間も、夫婦で行ったり来たりでイベント会社も動いてます。となると、私が無戸籍支援の活動ができるのは、本来は週末なんです。ですが、私はなるべく平日に活動したいんです。それは、行政の窓口が平日しか開いてないから。ほんま、主人やスタッフには迷惑のかけ通しです」
そうは言いながら、彼女は睡眠時間を削って深夜に仕込みをするなどして、手弁当での活動を続ける。その頑張りのもとは何だろう。
「私に人の痛みをくみ取る力があるとすれば、やっぱり少女時代の体験やろうか。2人の母からの虐待に学校でのひどいいじめ。でも私は両親の愛情は薄かったけれど、ずっと見守ってくれる祖父母や今の母がいた、だから大人になれた。じゃあ、無戸籍の人には誰がいるのと考えたら、今の日本にはいないんですね。そう思うと、もう体が動いていたんです。とはいえ、最初は、私にとっても無戸籍の人というのは、テレビの特集で見るだけの遠い存在でした。まさか、当事者が、あれほど身近にいたなんて」