■乳房切除の決意を。父は「文野以上に文野のことを考えている人はいないんで」
「いちばん苦しかったのは、やっぱり中学から高校にかけて。二次性徴が始まって、体は女性として成長していく一方で、男性的な自我が強くなっていく。引き裂かれるような感じで、頭がおかしいんじゃないか、こんな人間はほかにいないなどと根拠のない罪悪感で自分を責め続けていました」
幼稚園から高校まで、日本女子大学の附属校に通った杉山さんは、宝塚的な憧れの先輩。女子生徒にかなりモテた。中3のときには、彼女もできた。それでも、常に葛藤があった。
「誰にも相談できず、バレてはいけないという思いで、外では明るい先輩を気取りながら、家では一人で泣いているみたいな……。
大人になった自分なんて全く想像がつかないから、僕はずっと30歳で死のうと思っていました」
新宿2丁目のおなべバーを探しに行ったのは、そんなころだ。実家は、とんかつ茶づけで有名な老舗「すずや」。店には、歌舞伎町という場所柄もあってさまざまな職業の人が集まってくる。LGBTQ+の人もいたはずだ。
それでも、わが子がとなると、話はそう簡単ではない。
「母には中3のときにバレちゃいまして。最初は目も合わせてもらえなくて。でも、母は自分を責めていたんです。育て方が悪かったとか、女子校に入れたのが間違いだったんじゃないか、とか」
高3のころには父にもカミングアウト。穏やかな性格の父は、
「いいんじゃないか。病気ではないんだから」という反応だった。
母も、自分なりに調べて、大学3年のころには理解してくれた。
「文野は文野。私の子どもに変わりないってわかったわ」
フェンシングの推薦で早稲田大学教育学部に進学し、セクシュアリティや人権について学び、大学院まで進んだ。フェンシングでは、日本代表選手にも選ばれた。
それでも、杉山さんのなかの死にたい気持ちは変わらなかった。
「日本代表はうれしいけど、同時に、女子の部かみたいな落胆もある。たとえば彼女とのセックスでも、気持ちがいいという体の感覚と同時に、自分の体は男性じゃないという現実を突きつけられる。快感の瞬間が、苦痛でもある。そんなふうに常に肯定と否定、両方がつきまとうんです」
代表入り後はケガが続き、05年、選手を引退。性同一性障害特例法が施行されたのは、その前年だ。性別適合手術を受けるなどの条件をクリアすれば、戸籍上の性別を変えることが可能となった。
杉山さんは悩んだ。手術を受けようか。しかし、親からもらった体を傷つけることは躊躇われた。そんなころ、車いすで移動中の乙武洋匡さんと明治通りでバッタリ出会い、乙武さんの後押しもあって、06年、性同一性障害の当事者として、自叙伝『ダブルハッピネス』(講談社)を出版する。
公にカミングアウトした形になった杉山さんのもとには、全国からさまざまな反響が届いた。「勇気をもらいました」という肯定的なものもあったが、「助けて」「死にたい」など、25歳では抱えきれないものも多かった。
「で、疲れ果てて逃げるように、海外に行ったという感じです」
2年間、バックパッカーで世界約50カ国と南極をめぐる旅をした。
「自分探しの旅でした。LGBTQ+を当たり前に受け入れてくれる場所もあり、気持ちが軽くなっていくなかで、気づいたんです。たとえ世界中の人が認めてくれても、たった一人だけ受け入れられない人がいる。それは自分だ、と」
入浴のたびに、鏡に映る自分の乳房に呆然とする自分がいる。
「おまえは誰だ? という感覚が拭えない。結局、僕がひっかかっているのは、性別であり、体だったんです」
乳房切除をする決意が固まった。手術のために、バンコクへ渡る。このころ、テレビの取材を受けた父親の言葉は忘れられない。
「手術するくらいなら、漢方では治らないんですかね」
と、とんちんかんな“迷言”を吐きながら、最後にはこう言ってくれたのだ。
「親として手術は心配ですが、文野以上に文野のことを考えている人はいないんで」
27歳になっていた。翌年からホルモン注射も打ち始め、大手外食系企業に就職。3年間勤めた。
「これが、どブラックな企業で(苦笑)。周囲はどんどん辞めていくなかで、気がついたら、僕は、これまでずっと僕を支配してきた性別のことより、誰にでもある仕事のことで悩んでいた。そのとき、あ、僕のステージが変わってきたなというのがありましたね」