■頼朝の愛人宅を焼き払った「うわなり打ち」は江戸初期まで長く行われた習慣だった
1157年、現在の静岡県伊豆の国市に、豪族・北条時政の娘として生まれた政子。実母を早くに亡くし、時政が再婚して迎えた新妻が牧の方。ドラマでは宮沢りえ(49)演じるこの義母は、一説では政子より年下だったという。
当時としては、すでに婚期を逃し20歳前後になっていた政子が出会うのが、平氏との戦いに敗れて京から伊豆に流された源頼朝だ。流人とはいえ、源氏の御曹司だった頼朝に、政子はぞっこんとなる。頼朝は、今風に言うところのイケメンだったのだろうか。
鎌倉歴史文化交流館学芸員の山本みなみさん(32)が語る。
「頼朝は、背が低く容貌優美、と『平家物語』にあります。坂東(関東)の荒武者とは違う、洗練された貴種の雰囲気をまとっていたのではないでしょうか」
2人の恋仲を知った時政は、平氏側の怒りを恐れ、政子に別の縁談を無理強いしようとする。ところが政子は、これを拒否して婚約者の屋敷を脱出し、夜道を駆け抜け、頼朝のもとへと向かうのだった。この「愛の逃避行」により、政子と頼朝は21歳と31歳で結ばれる。
「家長の力が絶対の時代に、親の言いなりにならず、自分の意思を通した政子は、情熱的で主体的な女性だったと思います。そして、この選択が、北条氏を歴史の表舞台へと誘うのです」(山本さん)
前出の野村さんは、
「今回の大河でこのシーンはカットされていましたが、『源平盛衰記』などでもかなり情熱的に描かれていて、女性なら大好きなはずのエピソードですから(笑)、少し残念な気がします」
やがて頼朝は鎌倉を本拠地として「鎌倉殿」となり、同じく政子は正室として「御台所」と呼ばれ、発言権を増してゆく。
1178年の長女・大姫誕生に続き、4年後の夏、政子は待望の長男・頼家を産む。
出産後まもなく、牧の方から、夫の頼朝が自分の妊娠中に亀の前という女性と浮気していたことを告げられた政子は、ただちに御家人に命じて、その屋敷を焼き払わせたのだった。
大河ではまるごと1話を使って描かれた恐妻エピソードだが、山本さんは、
「これは『うわなり打ち』と言って、政子が悪女とされる一因でもあります。ですが、前妻の関係者が後妻のもとへ箒などを武器に押しかけるという江戸初期まで長く行われた習慣の一つであり、けっして政子だけが行ったわけじゃないんです。
後に2代目の将軍となる男の子が生まれるかどうか、まさに幕府の命運がかかっていたわけですから、政子の嫉妬深さなどで片づけられる次元の問題ではありません。なにより、亀の前に男の子が生まれれば、わが息子の脅威になる可能性もありましたから、政子のプレッシャーはどれほど大きかったことでしょう」
野村さんは、政子の一見衝動的と見える行動について、
「正妻と妾の地位の差は歴然としており、ドラマであったように、亀の前が政子に“もっと勉強しなさい”といった説教をするようなことはありえません。政子の激しさは、時代の激しさだとも思うんです。当時、実は夫婦別財産で、女性も自分の権利を守るためには戦いました。私は、むしろ政子の決断と行動の速さに注目したい。それが、のちに政治でも生きてくるんです」
政子の意向で側室を持たなかった頼朝だが、御所の女房である大進局(だいしんのつぼね)との間には男子をもうけている。政子は彼女が御所で出産することを許さず京へ追いやったが、生まれた子の命までは奪わなかった。
そして頼家誕生の翌年、長女・大姫の婚約が成立する。相手は源義仲の長男の義高。大姫5歳、義高11歳という幼さだった。
ともに平氏打倒を掲げる源氏一族ながら、深い対立関係にあった頼朝と義仲だが、義仲は嫡男を「人質」に差し出すことで、裏切らないという姿勢を示したのだ。
ところが、その婚約の早くも翌年、義仲は頼朝の送った軍勢により殺害される。つまりは、頼朝が約束を反故にしたことになる。父の死を知った義高の報復を恐れた頼朝は、なんと、わが娘の婚約者の暗殺を命じたのだった。