■なんの恩返しもできず逝ってしまった母。いま、かけがえのない人は亜矢子さんだった
亜矢子さんは’75年、千葉県で生まれ、2歳のときに静岡県に移り住んだ。
予定日より2カ月も早いお産。しかも、双子の妹として生まれた亜矢子さんの出生時の体重は、わずか1千200g。誕生後、すぐ保育器に入れられたが、その際の高濃度の酸素によって網膜が損傷し、視力を失ってしまう。
5歳のとき。母が「この子にも何か楽しみを見つけてあげたい」と、通っていた盲学校の先生にピアノを教えてくれるよう、頼み込んでくれた。以来、彼女のかたわらには、いつもピアノがあった。
中学からは、その後、誠さんも進学する筑波大附属盲学校に。ところが、当初は6畳間に3人の生徒が寝起きするプライバシーのない寄宿舎での生活になじめず、不登校にも。そんな亜矢子さんの心を癒してくれたのがピアノだった。
「生徒が自由に利用できる音楽練習室が5つもあって、どの部屋にもピアノが置いてあることを知ったんです。暗闇に光が差した感じがしました。以来、私は時間を見つけてはピアノを弾き、歌を口ずさむことで、救われたんです」
高等部では音楽科を選択。音楽家への厳しい道を歩み始める。ときにはあまりのハードな毎日に心身を病み、心療内科を受診したこともあった。だが、それでも高等部卒業後の’94年には、武蔵野音楽大学声楽科に進学。きついレッスン、いちいち自分だけ点字の楽譜を用意しなくてはならない煩雑さに音を上げそうになりながらも、’98年、無事卒業に漕ぎ着けた。
卒業後、亜矢子さんは弾き語りの仕事を始めた。そして、3年後の’01年、亜矢子さんのもとに1本の電話が。相手は誠さんだった。
「じつは誠さんの3つ下の弟さんも、誠さんと同じ病気を患っていました。小学生の私が通った盲学校に、弟さんも通ってきていたんです。その学校では私が6年生のとき、富士山登頂を目指す取り組みがあって。そのパーティには誠さんと弟さんの姿もあったんです」
のちに結ばれるふたりは小学校時代、すでに出会っていたのだ。
「十数年ぶりの連絡は出演依頼でした。地元・沼津の知的障害者施設で、誠さんたち兄弟がクリスマスにギターコンサートをすることになったそうなんです。でも、ふたりだけでは心許ないので私に参加してほしいという電話でした」
そして、このコンサートを機に誠さんと亜矢子さんは、たびたび会う機会に恵まれ、やがて、それは交際へと発展していった。
しかし、ふたりはなかなか結婚に踏み切れないでいた。誠さんはその理由を「結婚生活への漠然とした不安があった」と話す。
「目が見えない者同士が一緒になって、果たして幸せな家庭が築けるだろうか、そう思っていました」
交際期間が3年を過ぎた’09年、突然の不幸が訪れる。誠さんの母が急逝したのだ。
「58歳、早すぎる死でした。横たわる母のなきがらを前に、命のはかなさを痛感しました。なんの恩返しもできないまま逝ってしまった母に、僕は心の中で詫びました。同時に、いまの僕にとってかけがえのない人は誰かという自問も。答えはもちろん、亜矢子さんでした」
突然の母との別れが、誠さんに決断を促した。こうして’10年11月、誠さんと亜矢子さんは結婚。このとき、亜矢子さんのおなかには小さな命も宿っていた。