国内最高齢ゾウのアヌーラ 三笠宮さまご夫妻の平和の願いを乗せて
画像を見る 鼻を頼りに暮らすアヌーラ

 

■南京に赴任した三笠宮さまは平和を願うように。戦後の「願い」を乗せてやってきたアヌーラ

 

アヌーラが日本にやってきたのは、経済白書が「もはや戦後ではない」と記した56年(昭和31年)のこと。インド洋に浮かぶ島国、スリランカの政府から、日本の子どもたちに贈られたのが当時3歳だったアヌーラだ。

 

そのきっかけは、スリランカで行われた「建国2500年記念式典」に三笠宮崇仁親王(16年に薨去)と百合子さまご夫妻が参列されたこと。昭和天皇の末弟・三笠宮さまについて、歴史学者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さん(70)が語る。

 

「戦前、当時の皇族のならいのとおり、陸軍の軍人となった三笠宮さまは、満州事変のあとの43年(昭和18年)に中国の南京に赴任。そこで中国語を学び、約1年間、中国各地を視察しながら、真剣に日中和平を探っていたのです。

 

そこで三笠宮さまが見聞きしたのは、聖戦といわれながらも、肝試しに生きた捕虜を銃剣で突き刺すなど日本軍の数々の虐殺行為。南京から離任するときには若い将校たちに、日中戦争が解決しない理由を『日本陸軍軍人の内省と自粛の欠如と断ずる』と厳しく批判したとの記録が残っています」

 

戦後は、皇族の身でありながら、三笠宮さまは、古代オリエント史の研究家として活躍した。

 

「身をもって戦争の悲惨さや不条理を知った三笠宮さまは、しばしば戦争の反省を口にしていました。また紀元節を『建国記念の日』にすることには、学者の立場から反対をして“赤い宮さま”と攻撃されたこともありました。

 

それでも信念を貫いたのは、戦乱と向き合うことが多い歴史研究のなかで学んだ、戦争がない社会をつくるためには、平和の期間を長く保つために最大の努力を尽くさねばならない、という強い思いがあったのでしょう」

 

アヌーラの故郷スリランカとの関係も忘れてはいけない。スリランカ出身で日本テレビ『ズームイン!!朝!』の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」で活躍したアントン・ウィッキーさん(85)が語る。

 

「アヌーラが日本にやってくる5年前、51年(昭和26年)に行われたサンフランシスコ講和会議では日本への戦争責任と制裁措置をどうするか話し合われていました。その会議で、のちにスリランカ大統領となるジャヤワルダナさんが『憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によって消え去るものである』とブッダの言葉を使って演説して、参加国で唯一、対日賠償請求権の放棄を表明したのです。それは、演説したジャヤワルダナさんだけでなく、すべてのスリランカ人の思い。私はアヌーラを慈愛のシンボルだと思っているけど、それを聞いたらアヌーラは困ってしまうかもしれないね」

 

スリランカ生まれの社会学者で羽衣国際大学の教授、にしゃんたさん(53)にも聞いてみよう。

 

「アヌーラは、当時のバンダラナイケ首相の7歳だった息子の名をとって名付けられました。バンダラナイケ首相は、その後、民族対立から暗殺され、妻が60年に首相になったのです。実は、世界で初めて女性首相が誕生したのがスリランカなのです。僕は、アヌーラが、民族や男女、文化の違いを越えて、“違う同士”が正しく関わり合うことの大切さを教えてくれる象徴だと思っています」 アヌーラは、さまざまな思いを背負って、赤道直下の島国からやってきた。

 

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