「若いときには若いなりの高齢者には高齢者の苦労がある。いつも今がいちばん幸せと思って生きるのが大事」とキョウコさん 画像を見る

【前編】ばぁば6人、ピザも元気もおまちどお!平均年齢78歳のおばあちゃんたちが始めた「BaBaピザ」から続く

 

「ピザにハマグリの取り合わせも珍しいし、コクのあるホワイトソースにもハマグリの煮汁を使っているそうで、海の香りがしておいしかったです。

 

なにより、元気をいただきました。うちの母もみなさんと同世代ですが、足を悪くして閉じこもりがちな生活なので、うらやましい。老いても元気でいるには、働き続けることが大事と教わりました」

 

八街市から家族と来たという主婦の藤田和子さん(61)は語った。食べ終えて店を出る前には、6人全員との記念写真をリクエスト。これも、この店ではよくある光景だ。店員のタカコさんが言う。

 

「なかには、この店のことをよく知らずに連れてこられたお客さんもいたりして、『一緒に写真を』となったとき、奥からゾロゾロと6人もオバアが出てくるので驚いてる人もいます(笑)」

 

九十九里浜の中央に位置する千葉県山武市の蓮沼地区。浜に向かって広がる畑の前に、「BaBaピザ」という小さな店がある。

 

働くのは73歳から86歳までの女性たち6人。平均年齢78歳の、その店名のとおり、おばあちゃんたちが運営するピザ店だ。

 

「生まれも育ちも、ここ蓮沼。子供のころは九十九里の海で遊んだり、実家は農家で畑の手伝いもしてました。4人きょうだいの長女だったから、いつも弟や妹をおんぶして駆け回っていたのよ」

 

BaBaピザ代表で、起業時の“言い出しっぺ”でもあるキョウコさんこと橋本京子さん。幼少のころから、リーダーの才を発揮していたようだ。

 

洋裁学校を出て、家事手伝いをしながら、迷うことなく地元の青年団に入団。

 

「ここで6つ年上の夫と出会い、21歳で結婚しました。夫は父親が地元の開業医で、自分も医大に入ったんだけど中退して実家の手伝いをしていたんです。結婚後、私も医療事務などをしてました」

 

その後、2人の息子と1人の娘の母親となる。しかし、安定した穏やかな暮らしが、40歳を目前にして一変する。

 

「主人が膵臓がんで45歳の若さで亡くなったのは、私が39歳のとき。病気がわかったときは末期で、1カ月半で亡くなりました」

 

夫の最期の言葉は、「おまえならできる」だった。このひと言を頼りに、キョウコさんは子供を連れて婚家を出た。

 

「当時、3人の子は高1、中3、小5の育ち盛り。とにかく食べさせるのに必死で、飲食業や生命保険の外交員をして働き続けました。

 

正直、子供が荒れた時期もありましたが、どの子も最後には、母親思いの子に育ってくれたの」

 

しかし、夫を失った10年後、今度は長男が26歳の若さで急逝。

 

「車の事故でした。その後は家族を失った悲しみを紛らわすように地域の婦人会活動にのめり込むんだけど、やがてその婦人会が活動停止となって。当時、仲間と『やっぱり地元の女性たちが集まる場が欲しいよね』と話して立ち上げたのが『笑の会』でした」

 

婦人会を引き継いだこのグループでは、習い事の講習会やボランティア活動などを行った。

 

「第1期からの会員のトキさんはじめ、今、一緒に働いている多くの人も、子供のPTAなどからの付き合いだから、もう50年以上の友達になります」

 

70代を目前に、相変わらず多忙な日々を送っていた’07年、今度はキョウコさん自身を病魔が襲う。

 

「突然のくも膜下出血。大手術になりましたが、幸い後遺症は出ずに済んだの。その後は、体力作りのためにグラウンドゴルフを始めて、1年後には、グラウンド横に休憩小屋を建てて、みんなの喜ぶ顔が見られるだろうと、ピザの石焼き窯を造ったんです」

 

そのピザを周囲にふるまうと、誰もが「おいしい」と評判に。実は、その前から仲間たちの間で、こんな声がよく出ていた。

 

「子供だけでなく孫もそろそろ手が離れるから、みんなで、お店でもやりたいね」

 

さらに、別の事情も。

 

「当時、BaBaピザの店の目の前にある道の駅で、笑の会でおにぎりの出店などをやっていましたが、冬は寒いし、夏は暑いしで、『いつか屋根のあるお店でやりたいね』と、メンバーの共通の夢みたいになっていたのよ」

 

そして’19年の年明けだった。すぐ近所で、山武市が管理する施設が空き家状態になっていることを知る。

 

「ここだ!」

 

キョウコさんは、気心の知れた仲間5人に緊急招集をかけた。

 

次ページ >料理本に、食べ歩きを重ねて、独学でのピザ修業。

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