■視力が落ちるたびに激怒した母 穴澤さんは14歳のときから会っていない
母のことで、穴澤さんの口からいい言葉は出てこない。それでも産み育ててくれた母ではないか。
「確かに通院も世話も、母がしてくれました。でもそれらが、私への愛情からだったのか疑問です。
母は私の視力が落ちるたび激怒しました。それも、わが子が具合が悪くなるのが許せないからだと私には思えた。暴力的なことさえ、されてきましたから」
しぜん母との時間が窮屈になり、叱られるのが怖くなった。逆に父のおおらかさに、救われたのだと振り返る。
「父はズボラな人です、寝たばこしていて焼け焦げを作ってしまうような。だからか、息子の私にも何もうるさく言わなかった」
幼少時期から運動を制限され、眼鏡をかけていた穴澤さんがバイオリンに触れたのは5歳のこと。
中学進学の際は、音楽大学付属中学も合格したが、筑波大学附属盲学校中学部への入学は、自分で決めた。母には大反対されたが、希望を通したのだ。
進路を考えるこのころ、家では両親の不仲が明らかになってきた。
「家に帰れば父母がけんかしているんです。母はだんだん家に帰ってこなくなりました。中学2年生のとき、両親は離婚しました」
穴澤さんはサラリと振り返る。
結局この14歳の多感な時期から今日まで、母には会っていない。
「大人になって以後、一度、手紙は来ましたが『元気でやりなさい』というような内容でした。
恨んでいるわけではないのですが、あえて会うこともないと思うんです」
いま母について話す口調は淡々として抑揚がなく、なんの感情も抱いていないかのようにも映る。
ともあれ、両親の離婚後は、脱サラして貿易会社を起業していた父と一緒に暮らすことになった。
折あしくバブル崩壊直後で、父が経営する会社も業績悪化する。
穴澤さんは高等部卒業後、2年の専門教育を受けられる専攻科音楽科に進学。音楽を仕事にするためだった。
’95年、専攻科を修了するとフリーランスで音楽活動をスタート。