「私は昔ながらの大切なことを教えているだけ。それを放置したために今の何でも他人のせいにする世の中にしてしまった」と語る天野園長 画像を見る

【前編】川崎市「風の谷の幼稚園」子供本位の教育にかける天野優子園長の情熱より続く

 

川崎市麻生区の小高い丘の上にある風の谷幼稚園は、大自然に囲まれた約5千坪もの広大な敷地を持つ。また、「スクールバス・給食・延長保育」という、いわゆる現代保育の“三種の神器”がないことでも、唯一無二の幼稚園として知られる。

 

卒園生には、世界を舞台に活躍するプロサッカーの久保建英選手(22)などがおり、風の谷の1年間を追った映画も今秋の公開が決まり、今改めて、このユニークな幼稚園に注目が集まっている。

 

「父は洋服仕立て業をしていて、腕のいい職人と評判で、母も家業を手伝っていました。

 

私は3人きょうだいの末っ子。こう見えても(笑)、子供のころは小児結核もあり体が弱くて、遠足にも行けないほどでした」

 

46年9月10日、神奈川県海老名市に生まれた天野優子園長(76)。

 

「病弱な分、家で本を読んだり、考えるのが好きで、幼いころから正義感は強かったと思います。

 

戦後まもなくで、まず疎開者への差別、あとは地主と小作人や、なんといっても男女差別。兄のお弁当には卵焼きが入ってるのに、私のにはおかかだけ。両親になぜだと聞いても納得いく答えは返ってこず、つらい思いをしました」

 

成績はよかった。しかし、そのことを自慢できなかった。

 

「あの兄でさえ中学を出て就職していたから、中1のころには“私の人生には先がない”と思っていました。ところが、一緒に生徒会活動をしていた会長が、奨学金のことを教えてくれたんです」

 

親には内緒で奨学生の試験を受けて合格し、厚木東高校へ進学。

 

「でも、その先の大学進学は絶対に無理とわかってたから、勉強はほどほどで、相変わらず山本周五郎などの本を読み漁っていました」

 

卒業後の64年春、大洋漁業(現マルハニチロ)に就職。働きながら、国際問題を考える勉強会に参加し、ここでのちに夫となる5歳上の学生と出会う。

 

「プロレタリア文学の『蟹工船』なども読んでいて、知的なものに飢えていたのだと思います。ですから、会社の労働組合の運動をするのも、ごく自然でした。

 

まだまだ結婚退職が常識の時代に、育児休暇制度なども訴えました。でも当時のマルハは、こんな跳ねっ返りの(笑)女子社員の話をちゃんと聞いてくれ、事務から人事課への異動もかなったんです」

 

22歳で長男を、2年後に次男を授かり自ら母親になったことで、女性の労働環境の改善はより身近なテーマとなる。

 

「不思議なのは、会社の環境は女性社員にも働きやすいように変わっていくのに、なぜか彼女たちは結婚や出産と同時に辞めていく。

 

どうして、と思いました。それで調査したら、当時の保育の環境が整っていないことがわかったんです。働きながら、安心して子供を預けられるところがなかった」

 

そして、決心する。

 

「私が働く女性を支えるというのは、会社から権利をもぎ取ることじゃなくて、安心して子供を預けられる場所を作ることだ」

 

10年間勤めた会社を辞めることに、迷いは微塵もなかった。

 

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