南樺太、ウクライナ――戦争で2度「故郷」を奪われ日本へ避難した降簱英捷さん(79)
画像を見る 「78歳になって故国に帰ってきました」と語る降籏さん

 

■3期の肺がんの診断「ここまで生きてくることができたのだから、いつどうなっても運命」

 

現在、北海道の旭川で英捷さんが一人暮らしをするのは緑豊かな高台に立つ公営住宅。妹のレイ子さんがすぐ隣の棟に暮らす。

 

記者がインタビューで自宅を訪れたとき、レイ子さん、日本サハリン協会会長斎藤弘美さんらが英捷さんの自宅を訪れていた。

 

「広い家ね」
「快適そうでよかった」

 

2LDKの各部屋はすっきりと整頓され、キッチンには6月にウクライナから持ち帰った、ソ連時代から愛用している珍しい調理器具も。

 

この日英捷さんは、翌日に抗がん剤治療が控えているにもかかわらず、手の込んだウクライナの家庭料理をふるまってくれた。

 

実は帰還直後、咳が止まらなくなった英捷さんは近所のクリニックで受診したあと、旭川医大病院で精密検査を受け、3期の肺がんが発見されていたのだ。すぐに放射線と抗がん剤の併用治療に入り、いまは奇跡的にがんが小康状態となっている。

 

「再発を防ぐための免疫治療の段階です。思ったよりは副作用が軽くて助かっています。ただ、私はここまで生きてくることができたのだから、いつどうなっても運命と思っています」

 

がん治療が一段落した今年の6月、英捷さんが戦禍のウクライナへ向かったのは、ウクライナ人としての人生の総まとめの活動であった。

 

緊急避難のときは何も持ち出すことができなかったため、妻や家族の写真や、思い出のウエディングドレスを持ち帰りたかったこともあったという。

 

「何よりも21年に他界した一人息子ヴィクトルの墓碑を建てる目処をつけたかったのです」

 

英捷さんの家は孫が機転を利かせて、焼け出された老夫婦に当座、貸与することにしていた。

 

滞在中に英捷さんは、この家やダーチャなどの財産を孫たちに譲る手続きを完了させた。

 

すでに昨年11月、英捷さんに日本国籍の残存が確認され、旭川の現住所に新戸籍を編製。ウクライナ人としてひと区切りつけた英捷さんは、日本人として歩みだしている。

 

「日本語がまだよく話せないから、不思議な日本人ですが」と苦笑いする。

 

英捷さんが終始穏やかな口調で話すロシア語を通訳するのは、病院にも付き添っている鈴木桃子さんだ。人生半ばを過ぎて永住帰国した残留邦人は、日本語を習得することが困難であり、優れた通訳者の支援は命綱なのだ。

 

「支援というより、英捷さんには私のほうがロシア語教室を手伝っていただき、助けられていることが多いです」

 

と柔らかくほほ笑む桃子さん。

 

ウクライナから英捷さんとともに日本に避難した孫の妻のインナさんは、着いた早々に妊娠が判明。1カ月も滞在せず、娘のソフィアちゃんとともにウクライナへ帰還した。やむなく大学を休学していた孫のヴラーダさんも、1年5カ月を日本で過ごしたのち、復学のために故国で生きる道を選択した。

 

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