■高校を卒業して就職した銀行では仕事ができない“お荷物”行員だった
昭和10年、東京都杉並区生まれ。昭和29年に高校を卒業して就職したのが三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)だった。
「私は空気が読めない、というか、空気を読まないダメ行員でしたね」
そもそも女性の求人が少なかった時代、当時花形だったデパートの初任給が7千900円、それに対して三菱銀行は8千200円だった。どうせなら月給が高いほうがいいという理由で銀行を選んだ。
「当時の銀行の業務は、機械化もコンピューター化もされていなくてすべて手作業。計算はそろばん、お札は指で数え、お客さんの通帳に名前を書くときは、インクとペン……。江戸時代とほとんど変わりません。私は生まれつき右手があまり動かないこともあって仕事が遅かった。『まだ終わらないのか』と先輩から叱られることも多く、落ち込む日々。まあ、よく辞めさせられないで済みましたね」
自らを“お荷物”だったと話す若宮さんだが、時代が味方する。まず、銀行に電動計算機が導入され、そろばんを使わなくても計算ができるようになった。さらに紙幣計算機が入ってきて、指で紙幣を数える必要もなくなった。
銀行はどんどん機械化が進んだ。さらに……。
「コンピューターが初めて銀行に来たときのことはよく覚えています。大切な機械だから壊しては大変だと、コンピューター室に入るときにはスリッパに履き替えさせられました。機械に触るのは、専門の人だけ。私たちは遠巻きに“なんだかすごい機械らしい”と話していました。でも、計算もお札を数えるのも、人間に代わって機械がやってくれるようになって、私はようやく“お荷物”行員じゃなくなったんです」
彼女が働いていたのは高度経済成長期の真っただ中。女性は数年勤めたら寿退社するのが一般的。夫は外で働き、妻は家庭を守ることが当たり前だった。
「お付き合いした人もいましたが、私は結婚を選択しませんでした。30代、40代になっても結婚しないなんて、という風潮もまったく気になりませんでした。人さまに迷惑をかけているわけでもないし、法を犯しているわけでもない。空気を読まなければいいんです」
新商品や業務改善策などを本部に企画提案していたら企画開発部に異動になった。
「私は、小さいときからひらめくことが多いので、企画の仕事は合っていたのかもしれません。自動振替サービスの開発など新しいアイデアが次々と浮かびました。不器用さに落ち込んでいた新人時代がうそのように」
男女雇用機会均等法が施行された昭和61年には、同行で初の女性管理職に。そんな彼女にはもう一つ“空気を読まない”エピソードがある。
「銀行員だったころの楽しみのひとつが海外旅行。当時は有給休暇を使い切る人は珍しかったのですが、私は有給休暇をばっちり取って、ひとり気ままな旅をしていました。その分、仕事をしているときは、人を自分と比べることも、他人のことを気にかける暇も惜しんで仕事にのめり込んでいましたけどね。そんな私を周囲は面白がってくれたのでしょう」
若宮さんは、定年の60歳まで銀行を勤め上げ、さらに子会社で嘱託社員として62歳まで働いた。