■3年連続の大病で手術。4年目に“事件”が
スタッフ、患者合わせて26人もの犠牲者を出し、火をつけた谷本盛雄容疑者(当時61)も死亡するという凄惨な事件をきっかけに、普通の主婦だった伸子さんの生き方は急展開していった。
「話を聞いて、人の心に寄り添いたい」。そんな強い思いで、現在「ワンネス財団」での対話のほかにも、心のモヤモヤを話せる「ナチュラルカフェ」(西明石)を開いたり、癒しの音浴をしてもらうイベントを企画するなど、多忙な日々を送っている。
昨年6月からは、心に寄り添うための学びとして、真言宗の修行を始めた。12月に得度。現在は僧侶資格を取るため、さらなる修行を重ねている。
「最初のきっかけは、ネットのニュースに書き込まれるコメントでした。兄の事件のニュースに『ここのクリックの患者でした』という方がかなりの数、書き込みをされていたんです。『すごくいい先生でした』『先生のおかげで生きてこられた』など、兄はすごく患者さんに頼られ、慕われていたんですね。
兄があれほど毎日忙しくしていたのは、患者さんのために一生懸命だったんだと思うと、涙があふれて止まりませんでした」
それから2年半。苦悩を乗り越えるまでの歩みを追った。
父親は内科医、母親は歯科医という医者家族に生まれた伸子さん。弘太郎さんは4歳違いの兄だった。
「子どものころの兄はずっと勉強していた印象があります。学校が重なったのは小学校だけ。勉強を教えてもらった記憶もないし。
あ、でも、兄がプロレスの技を教わってきて、私に技をかけたことがありましたね。『ちょっとかけさせて』『あいたたた』って(笑)」
歴史が好きで、中学生のころからお城や史跡、古墳などを巡り、釣りも好きだった弘太郎さんだが、いつも忙しそうだった。
自身の心療内科クリニックでは、生きづらさを抱えた人たちや職場復帰を目指す人たちに寄り添い、復職をサポート。父親の医院の近くでも新たにリワークプログラムを始め、産業医もしていたという。
事件を起こした谷本容疑者も、クリニックに通う患者の一人だった。容疑者死亡で不起訴となり、事件につながる動機や原因を知るすべは永久に失われてしまったが、いちばん無念だったのは、患者のためにと精いっぱい尽くしてきた弘太郎さん自身だったろう。
「ずっと多忙で、お正月に家族で集まっても、兄はいつも父とふたりで仕事の話ばかりしていました」
それでも、高校生だった伸子さんが、進学で家を離れた弘太郎さんに書いた手紙が15?16通、遺品のなかから出てきたときは驚いた。
「私の手紙を大事に持っていてくれたなんて。兄はやっぱり優しいと思いました。私が病気をして、入院したときもお見舞いに来てくれました。長居はせず、さっさと帰ってしまうけれど、いつかはゆっくり思い出話ができるんじゃないかなって思っていたんです」
40代に入るころ、伸子さんは続けざまに入院、手術を受けている。
「子宮筋腫で子宮の全摘手術を受け、翌年には卵巣を全摘。さらに脳にできた腫瘍の手術と、3年連続で入院が続きました。4年目は何も病気が出なくてよかったなと安心していた矢先の年末に、あの放火事件が起きたんです」