「訪問介護するため、まだまだ、走り続けます!」とテツ子さん(写真:永谷正樹) 画像を見る

【前編】1日100キロの山道を走破! 84歳の現役介護ヘルパー「年下を介護することもあります」より続く。

 

84歳にして現役の介護ヘルパーである長田テツ子さん。訪問介護事業所「てんまるっと」(静岡県浜松市)に所属するヘルパーとして、日々100キロの山道を、ワンボックス軽自動車を運転して、利用者のもとを訪問している。

 

テツ子さんが訪問介護の道に進んだのは81歳のとき。現在に至るまでの紆余曲折の道をテツ子さんに聞いた(前後編の後編)。

 

■何十通ものラブレターで愛を深めた

 

軽自動車の車両ナンバーを“1117”にしているとおり、テツ子さんが生まれたのは、1939年11月17日。6男4女の10人きょうだいの、7番目の次女だった。

 

「躾(しつけ)や礼儀は上のきょうだいから教えられました。母の唯一の口癖は『兄を泣かせるようなことだけはしてくれるな』ということだけ」

 

テツ子さんが訪問介護で利用者宅を訪れる際、正座をして両手をついて、地べたにつくほど深々と頭を下げるのは「幼いころからの躾」のたまものなのだ。幼少期、実家は現在の住まいよりも10キロほど山奥の龍山村にあり、近辺は平和で、戦争を感じることはなかった。むしろ戦争の影響は、兄のほうが受けていた。

 

「戦時中ということもあって、上の兄2人は学校に行けなかったし、すぐ上の兄は通信制の高校。だから、私が中学を卒業したとき『学校くらいは出ておかなければダメだ』と、地元の高校に通わせてくれました。それが子供心に切なかったんです。

 

高校時代、同級生たちは放課後に寄り道して、お好み焼きや焼きそばを食べたりしていましたが、私は兄たちに申し訳なくて、一度も寄り道したことはありませんでした」

 

高校卒業後は、当時の花形職業だったバスガイドに憧れを抱いたが、兄たちに言われるまま、服飾関係の学校に進学するのだった。

 

「バスガイドへの夢を母は応援してくれましたが、意気地がなかったのか、兄の前で自分を通すことはできなかったんですね」

 

服飾学校で高等科、師範科をそれぞれ1年通い修了。

 

「寸法を測るところから、型紙を作り、生地の裁断、裁縫と学んだので、卒業後はスーツ500円、洋服150円で、近所の人をお客さんに仕事を受けていました」

 

自宅で洋裁の仕事をする一方、同時に始めたのは、青年団の活動だった。近隣のさまざまな地区の若者が集まる研修会や会合は、男性との交流の場でもあった。

 

「若い人たちが集まるのが楽しそうで、青年団への憧れがあったんですね。フォークダンスが好きで、羽目を外して帰りが遅くなってしまうことも(笑)。兄たちには『9時を過ぎたら鍵を閉めるからな』とくぎを刺されたりしていました」

 

青年団の活動を通じて知り合ったのが、のちに結婚することになる3歳年上の叶彦(かなひこ)さんだったのだが、父親は交際に大反対。それでも叶彦さんは《僕はテツ子さんが好きです。君は僕以外の誰にも渡しません。従って君の心も絶対に動いては困ります》と、何十通ものラブレターや、《天竜や 月の光に心寄せ 明日の苦しみ ついと忘れて》といった短歌を送った。

 

そんな熱意が父にも通じ、テツ子さんは22歳のときに結婚。叶彦さんに嫁いだからこそ“今の自分がある”という。実家では厳しい兄がいたが、嫁ぎ先には義母と義祖母にかわいがられ、自由に過ごすことができた。

 

「24歳から30歳までに3人の娘に恵まれましたが、特におばあさんはすごく優しくて、子供の世話もやってくれました。だから私は、子供をおぶってお台所をやったこともないくらいなんです」

 

叶彦さんは、テツ子さんが積極的に外に出て働くことを応援してくれた。

 

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