■アフガンで地雷の犠牲者に施した“整体”。とっさに湧いた「日赤の看護師」の使命感
2002年、アフガニスタンのバーミヤンでの出来事だ。少数民族・ハザラ族の老人が、孫娘を連れて診療所にやってきた。少女の右足に巻かれた包帯を外すと、甲から先が壊死していた。タリバンの迫害を逃れて雪山に逃げ、凍傷にかかったという。笑いながら老人が言った。
「歩けるが、このままでは結婚できない。外国人に足を生やしてもらいにきた」
首都カブールにあったICRCの義肢装具センターに送り、装具を作ることもできたが、限られた予算では、入院費や滞在費までは支援できない。同僚のドイツ人麻酔医の女性は、
「できる技術があるのに、なぜ躊躇するの? 費用が足りないなら私が出すわ」
と、熱く主張する。
だが髙原さんは、少女の成長に合わせて今後、何度もカブールまで連れていくのは家族の経済的な負担が大きすぎると考え、
「装具を作るのは結婚する年齢になってからでよいのではないか」
と提案した。その後も何度も議論を重ねて、最善策を探っていったそうだ。
「ICRCの国際要員チームは多国籍で、納得するまで議論を闘わせることが多いのです。それでも、もっとよいやり方があったかもと考えてしまうことはあります」
バーミヤンのイスラム教徒は、亡くなるときに四肢がそろっていないと神に対面できないと信じていたため、体を整復することがとても重要だとこの一件で知った。そんな下地もあってか、このアフガン派遣時に、髙原さんはフローレンス・ナイチンゲール記章を受章する理由の一つになった“整体”を遺体に施している。
「仲よしの親族十数人がミニバン1台にギュウギュウ詰めに乗り、ピクニックに行く途中で、車が対戦車地雷を踏んでしまったことがありました」
搬送されてきた生存者は、ショックで叫び続ける女性1人だけ。ほかの親族は全員即死で、近くの倉庫に運ばれたという。髙原さんが気になって行ってみると、倉庫前にいた物資担当のスタッフが慌てて髙原さんを制止した。
「美貴、これを見てはいけない」
あまりの惨状にショックが大きすぎると思ったのだろう。
「私を何だと思っているの? 私は看護師よ!」
制止を振り切り倉庫に入ると、遺体は悲惨な状態。床に敷かれたシートに、手か足か判別がつかないほど損壊した体の部位が並べられている。家で留守番をしていたおじいさんが引き取りにくると聞き、髙原さんは思った。
「こんなん、渡されへんやん。亡くなった人が肉片のままで、人間の尊厳はどうなるの」
足元のご遺体を見ると、バラバラながらも同じ柄の服があった。犠牲者の男女別の人数に合わせて、バラバラの遺体を組み合わせ、足りない部分はガーゼやシーツ、包帯などで生前の姿に近づけるように整えていった。
「そのとき自分にできることをする」といういつもの髙原さんの行動だったが、帰国後に同僚に話すと「あっ、それって“整体”やんな」と、改めて思い当たった。
髙原さんが看護専門学校に通っていた1985年8月、日本航空123便墜落事故が起きた。死者520人、生存者は4人。事故後に近隣の赤十字病院などから駆けつけた看護師たちの救援活動は、損壊した遺体を生前の姿に近づける、のちに“整体”と呼ばれる活動が中心だった。
「授業で、当時の看護師の手記を読み『あんたらもこうするんやで』と熱心に教わったものの、自分がそんな特別な看護師になるなんて絶対に無理だと思っていました。でも、覚えとったんですね、脳が。特別でもなんでもない。その場にいれば、もうやるしかない。当たり前のことだったのです」
日航機事故以降、“整体”は亡くなった人と遺族の心情に寄り添う活動として行われるようになった。髙原さんは“整体”を通じて現地の文化や宗教を尊重する人道を実現した功績が、フローレンス・ナイチンゲール記章の授与式で称えられたのだった。
淡々と「自分にできること」を一つ一つやり続けて25年。小さくても点と点が積み重なれば、やがて1本の軸になる─―。
日赤の看護師の強い使命感は、いつしか軸となり、芯となって髙原さんの中に受け継がれていた。