アフガン女性に日本語教室を開く江藤セデカさん 日本語で照らし続ける母国追われた同胞女性たちの未来
画像を見る NPO法人「イーグル・アフガン復興協会」理事長の江藤セデカさん(撮影:高野広美)

 

■難民女性のための日本語教室。「夫亡き後、ずっと夢見てきたことでした」

 

’21年のタリバン復権で「前進してきたはずの女性の歴史が、100年前に再び巻き戻されてしまいました」とセデカさんは憤る。

 

「タリバン政権下では女子の教育が小学校までとされ、10歳未満で結婚させられる子も多くいます。そのため、いまアフガニスタンではメンタルが不調の女子も多く、精神科医が足りない状況です」

 

タリバンは教育から生活、服装まで女性の権利を著しく制限した。違反したら、鞭打ち、逮捕。死刑や公開処刑された例もある。また、各国大使館に勤務する人を諸外国への協力者と断じた。

 

そうした環境に耐えかねて、ここ数年、他国へ避難する人が激増している。

 

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によれば、世界の難民は’23年末で約1億2千万人、そのうちアフガニスタン難民は約640万人と最多になっている。

 

日本には同年6月時点で約5千600人のアフガニスタン人がいて、そのうち約2千300人が千葉県に暮らす。

 

「ところが多くのアフガニスタン人が就職できていません。高学歴の女性も含めてです。

 

日本語の読み書きができないのがその理由です。書類も書けず、不安だけが膨らんで、一歩も先に進めなくなってしまう」

 

こうした状況にセデカさんは立ち上がった。今日の同胞女性たちが直面している困難は、夫を亡くした40年前に自分自身が味わっていたものだったからだ。

 

’23年11月4日に千葉市で開校した、アフガニスタン女性が対象の日本語教室「イーグル・アフガン明徳カレッジ」には現在150人が登録しており、難民認定された人もいる。

 

受講する40代の女性が言う。

 

「来日して4年、仕事がしたいけど、どこも雇ってくれず、不安を抱えていました。日本語は難しいですが、日本語教室で字が少し書けるようになりました」

 

講師を務めるロキアさん(36)はアフガニスタンで産婦人科医をしていた2児の母で、夫(49)も心臓医。22年に一家で来日した。

 

「母国でタリバンに暴行された夫には後遺症の脊椎損傷があります。そのため定職には就けず、アルバイト勤務です。私は製品工場の作業員をしています。

 

難民支援が整った国では最初の1年を政府の援助で学べて、2年目から仕事ができます。でも日本では自費で勉強しながら、仕事もしないと生活できません」

 

この教室に場所と託児サービスを提供している千葉明徳学園の福中儀明理事長はこう話す。

 

「セデカさんに『日本語教室を開きたい』と相談され、『ぜひやってほしい』と即答しました。私自身も、母国を追われる難民の姿に心を痛めていたのです。

 

いまは、女性の日本語習得だけでなく、そのお子さんたちの小学校教育の補習もしています」

 

そのとき日本語のテストの採点を終えたセデカさんが、驚きの声を上げた。

 

「4人が満点でした! 日本語能力試験にも2人合格したんです」

 

教室では日本の生活で悩む人たちの人生相談も受ける。

 

「『家賃が払えない』というものからDVの相談まで。こうした声を反映させるために、今後は仕事の紹介や、日本語キーボード修得もサポートしたい。奨学金制度の設立も働きかけていきたいです」

 

夢は尽きない。その原動力は何かと、あらためて尋ねた。

 

「近年、日本でアフガニスタン人の少年による事件も起きていて心を痛めています。でも母親が日本語を理解できなければ、学校での子供の状況さえ把握できません。

 

子供の教育は、母親が担うところが大きい。だから、アフガニスタン女性に日本語を教えなければいけない。それは、夫亡き後、私がずっと夢見てきたことでした。その第一歩が、ここでやっと踏み出せたのです」

 

最後の「ここで」に力強いアクセントを置いた彼女は、夫を失った後もここ日本に住み続け、独学で日本語を学びながら女手一つで子育てを続けてきた。

 

その苦難から得たやさしさは、今度は戦渦で母国を追われた人々の心を労わっていく。

 

ふと、セデカさんの長女が語った一言が思い起こされた。

 

「アフガニスタン人支援は、母のライフワークそのものです」

 

母国を流れる「絹の道」という川のように、セデカさんの情熱は絶えることなく、同胞らの乾いた心を潤し続ける。

 

(取材・文:鈴木利宗)

 

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