■母は新婚時代の記憶を頼りに父の暴力に耐え続けた
征平さんへの暴力も常軌を逸していた。小学生のころ、女生徒にも人気があった征平さんに対し、担任が通知表に〈早熟である〉との評価を書いた。それ見た父は激怒。征平さんの手足をグルグルに縛り、近所を走る阪急電車の鉄橋の欄干に身を乗り出すように縛り付けた。
「電車が下を走るたびに、目の前でパンタグラフがバチバチッと鳴るんです。もう死ぬと思いました」
暴力に加えて、女性問題も……。
「忘れもしません。僕が小学校5年生のときです。朝から晩まで汗水垂らして働いている母に向かって親父は、『今日は何が何でも、いつもより、はよ帰ってこい』と言う。母が夕方戻って晩飯を作ると、親父の女がやってきた。酒を飲んで食事をすませた親父は、『おい、布団敷け』。『今から2時間、征平を連れて風呂に行け。時間前に戻ってきたら承知せえへんぞ』と……」
母と2人、遠くの銭湯に行って帰ってきても、まだ1時間ある。近所の材木店の木材に、母と並んで腰を下ろし、しばらくのあいだ時間をつぶしていた。そこへ、自宅から出てくる女の姿が……。
子どもながらに事情を察した征平さんは、「お母ちゃん、なんでお父ちゃんと別れへんの? みんなお母ちゃんについていくのに」と、問うたという。すると、フミさんは決まってこう答えた。
「お父ちゃんは必ず変わらはる。戦争に行く前の優しいお父ちゃんに戻らはる。せやから、それまで辛抱してあげような」
新婚時代の優しかった夫のことを、フミさんは生涯忘れられなかった。このような家庭環境にもかかわらず、非行に走らなかったのは、母の献身があったからだ。
「まったく働かへん親父に代わり、母が京都で1坪ほどの繊維問屋を営んで家計を支えてくれました」
朝から晩まで働いたフミさん。不自由な体で自転車をこぎ、職場と家を往復しながら、配達にも回った。征平さんら3人の兄弟も、小学生のころから、休みの日に店番や配達の手伝いをした。
「母はクリスマスになると、借金をしてでも、戦争未亡人と、その子どもたちが住む施設に、あんパン100個を差し入れするんです。『うちも父親おらんようなもんやん。俺にも食わせてくれ』と言うても、『あかん』て言われてね。戦争で父親を亡くした子どもたちに、人の温かみを教えてやりたかったんやと思います」
(取材・文:和田秀子)
【後編】「中国兵の遺体が鎖に繋がれて」桑原征平さん語る戦争トラウマ「日記を読んで、父が暴力的だった理由がわかった気がした」へ続く
画像ページ >【写真あり】母・フミさんと征平さん。ほとんど働かない父に代わり、家計を支えた(他3枚)
