「中国兵の遺体が鎖に繋がれて」桑原征平さん語る戦争トラウマ「日記を読んで、父が暴力的だった理由がわかった気がした」
画像を見る 81歳の今も“しゃべり力“は健在。ラジオパーソナリティとして活躍している(撮影:小松健一)

 

■「銃剣で刺せ」。母の遺品から見つけた父の日記

 

父亡きあと、桑原さんの活躍の場は東京へ。関西テレビからの出向として、2年間、フジテレビの『おはよう!ナイスデイ』の司会・リポーターとして、事件・事故の現場を駆け巡った。

 

年月は流れ、2004年。桑原さんは60歳に。35年間務めた関西テレビを退職する日がやってきた。その際には、退職記念特別番組として『さらば征平・最後の挑戦!』と題した特番が組まれるほど、愛されるアナウンサーになっていた。

 

第二の人生。桑原さんは、その活躍の場を、テレビからラジオへと移していった。

 

「ABCラジオのディレクターが、35年の僕のアナウンサー人生について、ぜひ番組でしゃべってほしいと言うてくれてね。ほんまにありがたいことです」

 

大阪芸術大学の教授にも就任。放送業界について、学生たちに講義する機会にも恵まれた。新たな世界での活躍が続いていた2010年、最愛の母、フミさんが94歳で他界する。

 

「母の遺品を整理していたら、1冊の本が出てきました。表紙に『陣中日記 桑原栄』と書いてある。開いてみると、親父が日中戦争に出征したとき、戦地で書きためた日記やった。親父が紙切れに書いていたのを、母が見つけて本にしたらしい。30冊ほど刷って親戚に配り、1冊だけ手元に置いてたんや。僕に渡しても読まんと捨てると思って、言うてなかったそうです」

 

200ページほどある日記をめくると、目を覆いたくなるような戦地での惨状が記されていた。

 

「さっきまで隣にいた戦友が、鉄甲を打ち抜かれて死んでいく。中国人の民家に押し入って、水がめのなかに隠れていた住民を引きずり出して、上官が『桑原、撃て!』と。でも、銃から弾が出えへん。『あぁ、よかった』と思ったら、『銃剣で刺せ』と。刺した感触まで全部書いてあんねん」

 

印象に残ったのはこんな場面だ。

 

「中国軍のトーチカ(防衛陣地)に攻め入ったときのこと。中を見ると、中国兵が10人ほど、足を鉄の鎖につながれて逃げられない状態で死んでいた。それを見た親父は、『中国兵も日本兵も、二等兵は大変や。上官の命令には背けないのだ』と、そんな哀れみが書き記されていました」

 

終盤のほうでは、「進むも死、引くも死」と、死を覚悟した様子も見られたという。

 

「生前、戦争のことは一切口にしなかった親父ですが、この日記を読んで、ようやく気持ちの一端を理解できたような気がします」

 

父からの伝言のような『陣中日記』を受け取り、「戦争の悲惨さを伝えねば」と考えた桑原さん。自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『桑原征平 粋も甘いも』にて、半年にわたり、日記を朗読。父との思い出も交えて紹介したところ、大反響を呼んだ。

 

征平さんは、ラジオで紹介するなかで、父を許す気持ちが少しずつ芽生えていったという。

 

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