■1日に100人近くの似顔絵を描いていた。お金のことばかり考えるサイテーな人間に
大村さんは1985年、愛知県知多郡に生まれた。病弱で休みがちだったせいか、保育園に友達は少なかった。小学校では「軽いいじめにもあった」と話す。
「だから、級友と遊ぶよりも『一人で遊んでたほうが楽しいや』と。それで“絵だけが友達”って子になりました。算数や国語など、どの教科も集中力がまるで続かないのに、絵だけは没頭できた。これはもう絵描きになるしかないと、早々に勉強には見切りをつけました(笑)。小学校の卒業文集にも『絵描きになりたい』と書いてました」
中学、高校ではバスケ部に所属。見違えるほど健康になったが、それでも絵はやめなかった。「早く絵の仕事に就きたい」と、大村さんは、高校を卒業した2003年、イベント会社に似顔絵師として就職した。
「似顔絵なんて描いたことなかったので。本来なら、まずは修業なんですが。当時は需要に供給が追いつかないほど似顔絵人気が高く、入社早々現場に放り込まれました。どこかのショッピングセンターだったと思いますが、もう最初から“入れ食い”状態。
どんなに絵が下手でも、僕みたいな新人でも『似顔絵いかがですか~?』と声をかけると、すぐにお客がつくんです、それも次から次へと」
多いときには、1日に100人近くの似顔絵を描くこともあった。
「当時は結婚式場でも似顔絵の仕事があって。『新郎新婦様からの引き出物として、皆さんの似顔絵を描きます』って感じで。披露宴会場で参列客を片っ端から、1人2~3分というごく短時間で描くんです。いま振り返ると、かなりむちゃくちゃですけど。それを1日3回転とかやってましたね」
似顔絵師としてデビューした当初は、好きな絵の仕事に就けたこと、夢が叶ったことが、このうえなくうれしかった。しかし、そんなときめく思いは長続きしなかった。
「苦労もせず、1日10万円とか、簡単に売り上げることができて、それが毎日のように続くんです。とくに愛知万博(愛・地球博)のころがピークでした。
僕、万博の瀬戸会場で、ずっと似顔絵を描いていたんですが、最低でも1日10万円、調子がいいと15万円にもなった。全部が自分の収入になるわけではありませんが、ボーナスには反映される。気づけば絵が描けて楽しいという気持ちより、今日はいくら稼いだとか、お金のことばかり考えるようになって」
バブルがはじけ、長く不況が続く日本で、20歳の大村さんは“似顔絵バブル”を目いっぱい、享受した。
「大金を稼ぎ、使うっていうことが楽しくてしかたなかった。貯蓄もせず、ブランドものを買いあさりました。それも、その品物が欲しいからというよりは、優越感を得るために。
ゴミクズみたいなサイテーな人間でした(苦笑)。当時も友達は少なかったですが、その数少ない友達のことも、どこかバカにしてる自分がいて。お金だけで人を判断していたんです」
