■「平和ボケ」は誇るべき達成である
ここで東氏の思索は、前編でも触れられた「平和ボケ」へと移る。 世間ではよく「日本人は平和ボケしている」「もっと危機感を持つべきだ」という言説が語られる。だが、東氏の見解はまったく異なる。
「僕は、平和ボケで何が悪いんだと思うんです。戦後80年間、日本社会が深刻な軍事衝突に巻き込まれず、人々が安全な日常を享受してきたからこそ、『平和ボケ』でいられた。それは批判されるべき欠陥ではなく、戦後日本が成しとげた偉大な成果ですよ。
むしろ問題なのは、『平和ボケをやめろ』と叫んで、人々を政治的・軍事的な緊張感へ駆り立てようとする勢力です。ウクライナやガザの現実を見ればわかる通り、日常が壊されることこそが戦争の悲劇なんです。ボケていられる日常を守ることこそが、本来の平和の目的だったはずでしょう」
ただし、と東氏はつけ加える。
「ボケたまま、何も考えなくていいという意味ではありません。『自分たちは平和ボケした社会に生きている』という自覚を持ちながら、政治やSNSがあおる安易な熱狂に流されないこと。日常の価値を噛みしめ、それを維持するために冷静でいること。それが、いまの私たちに求められている姿勢なんです」
■社会は政治より大きい――「敵と味方」の二者択一を超えて
戦争と政治が日常を浸食しようとする時代に、私たちはどう抗えばいいのか。この難問に対し、東氏はこう訴える。
「僕がいちばん言いたいのは、『社会は政治より大きい』ということです。 政治や戦争は、すべてを『敵か味方か』『正義か悪か』の二元論に塗りつぶそうとします。しかし、人々の生活、文化、家族の営み、くだらない雑談といった『社会』の領域は、政治なんかよりもはるかに広大で豊かです。政治の論理がどれほど過熱しようとも、社会の側がそれを呑み込んで無力化してしまうような、たくましさを持たなければならない」
権力側の同調圧力に歯向かった例として、東氏は太平洋戦争下のある文豪の姿を挙げる。
「戦時中、谷崎潤一郎は検閲を受けながらも『細雪』を書き続けました。国家が挙国一致で戦争に突き進んでいる最中に、大阪の裕福な姉妹の日常や結婚話を淡々と描き続けたわけです。これはすさまじい抵抗ですよ。
戦争を防ぐには、SNSに興じてばかりいるのではなく、みんな『細雪』を書けばいいんです(笑)。世のなかがどれほどきな臭くなろうとも、自分の目の前にある日常や生活、表現を手放さないこと。ひとりひとりが自分の場所で自分の『細雪』を書き続けることこそ、政治の暴走に対するもっとも根源的な抗いとなり得ます」
SNS上の政治的な議論は、もはやエンタメ化したとさえいえる。誰もがスマホで手軽に発信できるいま、この熱狂は制御不能に思えるが……。
「SNSを開けば、毎日、どこかで対立が起き、激しい言葉で殴り合っている。でも、そこから一歩離れれば日々の仕事があり、家族や友人との時間があり、おいしいご飯がある。政治の論理で頭をいっぱいにせず、個々人がそれぞれの日常に踏みとどまる。誰もが自分の好きなことに没頭できる環境こそが重要なのです。終戦記念日に私たちが思い起こすべきなのは、『ボケていられるほどの平和な日常』の尊さと、それを守り抜く意志なのだと思います」
間違っても「かつて日本は平和ボケしていた」と、過去形で振り返る未来にしてはならない。バズった挙句に世論が戦争へと傾斜しようとも、ひとりひとりが置かれた領域で自分なりの『細雪』を書き続けること。それこそが、我々が享受し続けてきた平和をいまこの場に繋ぎ止め、次世代へと手渡すための唯一の術なのだ。
(取材・文:鈴木隆祐)
画像ページ >【写真あり】東浩紀氏がウクライナで見た戦時下の「日常」(他8枚)
