《白血病で15歳で亡くなった息子の言葉を胸に…》骨髄バンク設立に奔走した母の40年「医療に差別があってはならない」
画像を見る クリーンルームの中で本を読む知くん

 

■「よくやったんじゃない? ごくろうさま」

 

この活動と並行して橋本さんは知さんを連れて渡米し、NMDP(全米骨髄バンク)に患者登録する。しかし適合者は見つからなかった。

 

「通院しながらの投薬は10歳から14歳まで続きました。『お母さん、どのくらい病院に通えば治るの?』と聞く知に、あと5年よ、がんばろう。あどけない顔で質問する息子になんの約束にもならない返事をする自分に胸が痛みました」

 

そしてついに投薬だけでは症状が抑えられなくなる日が来た。

 

「白血球が激しく増え、体中に内出血によるあざができてきました。いよいよ入院して治療を始めることになり、初めて知は自分の病名を知ることになります。

 

つらい治療になることを医師から告げられると『つらいとか、痛いとかには負けないよ。それより僕は受験が心配なんだ』。知は、自分の人生が終わるとは考えていなかった。高校受験という未来に目が向いていたのです。

 

今まで本当の病名を隠していてごめんねと謝ると、『おれ、知ってたけどね』。これは意外な答えでした」

 

そんなとき、1990年の国会答弁から2年近くたってようやく悲願の骨髄移植推進財団が設立。骨髄バンクが実質的にスタートする。

 

「骨髄バンク設立が新聞各紙で報じられた1991年12月、その1紙を持って無菌室にいた知に『骨髄バンクができたから、もうお母さんは出張とかで出かけないからね、ずっと知のそばにいられるよ。これまで留守ばかりして、ごめんね』と報告がてら謝りました。

 

そうしたら知は、新聞は見ずにちょっと私を見て、私の頭をなでてくれました。『ま、よくやったんじゃない?ごくろうさま』と」

 

この時期に、病状の進行を遅らせるために、自家骨髄移植(患者自身の造血幹細胞を採取・保存し、化学療法後に体内へ戻す治療法)に踏み切るが、1992年2月、高校の受験票を枕元に残し、知さんは旅立った。骨髄バンクがスタートしてから、3カ月後。15歳と7カ月だった。

 

「すべてこの世の用事は済んでしまった。知の後を追って逝きたい。そんな虚無感でいっぱいになり、1年くらい立ち直れませんでした」

 

生きる気力を失った日々のなかで知さんと過ごした時間が頭をよぎる。

 

「病気になるずっと前のことですが、知が『お母さん僕が死んだら悲しい?』と聞いてきたのです。本の中にでも子供が死ぬ話があったんですかね。ちょっと母の愛を確かめたかったのかな。

 

私は、『知くん、子供は母の心臓なのよ。心臓がなくなったら生きていけないでしょう。だから子供は死んじゃいけないの』。そのときの知はとてもうれしそうでした」

 

家族旅行の楽しい思い出も……。

 

「まだ本格的な治療が始まる前に、オーストラリアに家族旅行にいきました。食いしん坊の知は大好きなステーキをおなかいっぱい食べ、妹は念願のコアラを抱きしめました。オペラハウスで家族全員でシンフォニーも聴きました。片言の英語で現地の人と話したり、とても楽しかった」

 

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