《能登半島豪雨から2年》遺族が偲ぶ“犠牲になった14歳少女”との思い出「成績はよくて、夢は公務員」
画像を見る “翼音のフクロウ”の絵を描く祖父・誠志さん(撮影:ただ〔ゆかい〕)

 

■「ばあちゃん、落ち着いて」、能登半島地震発生直後も家族を励ました翼音さん

 

喜三翼音さんは’09年12月28日、石川県輪島市に生まれた。当時、父親の鷹也さんは製材所に勤めていた。

 

「出産にも立ち会いました。抱かせてもらうと、温かくて重くて。一人目の子供やったんで、いろんな感情が湧き上がりました」

 

さまざまな方面で活躍してほしいという願いから「翼」、それに鷹也さんは音楽が好きだったため「音」の文字を合わせ「翼音」と名付けた。

 

「翼音が小1のときに離婚して、翼音と長男をボクが、まだ小さかった次男を元妻が引き取ることに。翼音はごはんをおいしそうに食べる子で、サーモンのお寿司が大好物。朝は、ボクが作ったスクランブルエッグというか炒り卵をごはんにのせて、ふりかけをかけて食べるのが好き。そして何よりお気に入りなのは、ばあちゃんの作るご飯とお弁当でした」

 

翼音さんは、祖父の誠志さんから絵の才能を受け継いでいた。

 

「ボクに絵の才能はなく、輪島塗の仕事を継ぐ気はありませんでしたが、翼音は絵がうまいこともあり、じいちゃんの仕事にも興味を持っていました」

 

翼音さんは中学生にもなると、反抗期を迎えたという。

 

「休みの日に『金沢に行こうか』と誘っても、ついて来なくなりましたね。『服を買ってやるから』っておまけをつけないと来ない。でも、ケンカもしたけど、反抗期はほかの家よりはマシやったと思います」

 

能登半島地震が起きたのは’24年元日の夕方。鷹也さんは親戚へのあいさつまわりをして自宅に帰ったとき、翼音さんは当時は近所にあった祖父母の家にいたときに発生した。

 

「家が潰れるかと思うくらいの揺れでした。テレビが倒れたり、冷蔵庫がずれたり、立って歩ける状況ではないから、息子とコタツの下に隠れました」

 

揺れがおさまって屋外に退避すると、景色は一変していた。

 

「家や倉庫が倒壊したり、山肌が崩れたり……。津波が来るかもしれんから、翼音のいる実家に行って、実家の裏から高台に移動しようと思いました」

 

鷹也さんと長男は、潰れた小屋や散乱する木材を避けながら、歩いて実家に移動。倒壊を免れた実家を一目見て、安堵した。

 

「少し斜めになった部分はありましたが、家族の命さえ無事であれば、なんとでもなりますから」

 

地震発生直後のようすを、悦子さんが振り返る。

 

「揺れがおさまったころ、翼音の部屋にあわてて行くと、エアコンも落下してメチャクチャなのに、ベッドの上にいた翼音は『大丈夫、大丈夫やから、ばあちゃん、落ち着いて』って」

 

そんな孫娘の冷静さに、悦子さんも救われた。鷹也さんが続ける。

 

「翼音はわりと“なんとかなる”という前向きな性格だったから」

 

地震発生直後は余震が続き、家に入ることはできなかった。そこで誠志さんが所有する荷台付きの箱型トラックを鷹也さんの自宅の庭に移動させ、布団や毛布を持ち込んで雨露をしのいだ。

 

「家族が集まっていたから、子供たちにはキャンプをしているような感覚もあったのかもしれません」

 

だが誠志さんと友人が共同経営する、工芸品と輪島塗の店「HAPPY Rest」がある輪島朝市通り方面の空が赤く染まっていた。

 

「火事に巻き込まれているのではと心配でしたが、道が寸断されて見に行けませんでした」

 

悪い予感は的中し、店は火事で商品も含めて焼失してしまった。さらに誠志さんの家は、準半壊という判定に。全壊、半壊に比べ、準半壊の場合は受け取れる義援金が少ないという。

 

「準半壊という判定では実家を修理することも取り壊すこともできませんでした。仮設住宅にも入れないから、両親は輪島から野々市市の仮住まいに引っ越すことに。ボクの自宅は無事だったから、輪島に残ったんです。でも……」

 

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