国内
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和歌山カレー事件 『逮捕から7年間、母親と会えなくなった子供たち』
2009/04/22 00:00「朝の六時ぐらいでした。突然警察がドカドカと部屋の中に入って来ました。僕は女の警官に起こされて、その後パッと窓を開けたらフラッシュの嵐…。警官に窓を『開けるな!』と言われた直後、『2週間分の着替えの用意を急いでしろ』と。もう何が何だかわからないまま、下着類をバッグに詰め込みました。ただその時は、とりあえず2週間したら元の生活に戻れるだろうと思っていたのですが、釣り竿をもった瞬間に『もう二度と釣りは -
第16回 「教室へ行く道は遠い」柳田流への入門、平坦ではなかった書家としての道
2009/04/22 00:00二十歳の個展以降、翔子さんは月に3回、柳田泰山氏の主催する『泰書會』で指導を受けはじめた。 自宅から電車を2回乗り換えて、片道50分ほど。日本橋の本部まで一人で通い、3年になる。「柳田流は先代からの筆法に惹かれ独身時代から入門していたのですが。精密の極みともいえる、どんなに崩しても崩れない美しさがあり、翔子には一から習得させたいと思いました。特に翔子が行きたくない、とか辛いと言ったことは一度もない -
和歌山カレー事件で家族が崩壊 『すべてはあの逮捕劇から始まった』
2009/04/21 00:00本日4月21日15時、最高裁3小法廷は、あの“平成の毒婦”と呼ばれた林眞須美被告(47)に死刑判決を下した。死者4人、63人が急性ヒ素中毒となった『和歌山カレー事件』。一審、二審ともに死刑。が、動機不明、直接証拠もいっさいないという矛盾も指摘されていただけに、司法の最高機関が下す判決に大きな注目が集まっていたが、林眞澄美被告側の上告を棄却。死刑が確定した。事件当時、彼女には同時に詐欺容疑で逮捕され -
「翔子さんの中に生き続ける父」病気で亡くなってしまったお父様と、毎晩お話を…
2009/04/21 00:00「私がテレビに? 新聞に?」と戸惑いもあったが、元来、環境に惑わされない純粋な翔子さんは、どんなに周りが騒がしくなろうとも無心、無欲で書を書き続けている。「書くことは楽しいし嬉しい。書いていると、お母様がすごく怒って、私が泣いたりすることもあります。そんなときは、お父様に『お母様を叱って』とお願いするんです」という翔子さん。 彼女にとって、裕さんの死は解っているが、同時に翔子さんの中に「お父様」は -
「ダウン症で日本一の書家に」父との約束を果たし、初の個展を開催…
2009/04/20 00:002人の約束だった「二十歳の個展開催」は遺言となってしまった。そうなると何がなんでも開催だけはしなくては、という使命が泰子さんを突き動かしていた。「このときは生涯1回限りだと思っていたのです。ならば書家の憧れである『銀座書廊』でやってみようということにもなりました」2005年12月、『翔子・その書の世界」を開催。書廊始まって以来の2千人を超える来訪者数を記録した。併せて日比谷帝国ホテルにて、初の席上 -
「最愛の父の死」 二十歳になったら個展を開く、それが父との約束だった
2009/04/19 00:00「翔子が二十歳になったら個展を開いてあげたいね」 裕さんの発案、それがいつのころからか夫婦の約束になっていた。 親戚の方とか、お世話になったのに疎遠になってしまっている友人・知人たちに翔子がダウン症であることを誰に知らせたか、わからなくなっていたのです。ダウン症で生まれた翔子がこれだけ成長しました、ご心配かけましたが二十歳になりましたというご挨拶も兼ねて、開いてあげようね、と」 二十歳のお披露目。 -
「飛翔って何?大空にこうやって羽ばたくのよ」母は抽象概念を、体験から学ばせた
2009/04/18 00:001日1枚のペースで4日で1組が完成していく。泰子さんは菜箸を持ち、それで白紙上に字の位置を示しながら、翔子さんの隣に座り続けた。叱ってはまた泣き、休憩し、また書き続ける。そのうち、一つ一つの文字としてはアンバランスではあっても、ひと塊で見ると、一種、凄味さえある作品が生まれようとしていることに泰子さんは気づいていた。般若心経を書くには、楷書の基本となる右肩上がりを理解させなくてはならない。しかし、 -
「涙の般若心教」 ポロポロ涙をこぼし、一行目を書き終えて母に伝えた思いとは…
2009/04/17 00:0008年の年末、東京松坂屋銀座店で開かれた翔子さんの個展では、10歳にして書かれたこの作品は来場者を圧倒するに十分だった。完成までの背景から、涙の般若心経とも評されるーー。「まだ十歳で、しかも知的障害を持つ翔子には無謀とも思えましたが、これくらいのことをしなければ、私たちは心の持って行き場がなかったのです」 泰子さんが、何枚もの半切(画線紙)に銀色の罫線を引いた。それを「翔子のために、夕べ遅くまでか -
「小4の春、もう学校へは行けないの?」普通学級からの拒絶、強制的に養護施設へ
2009/04/16 00:00「新しい担任の先生から、『翔子ちゃんはリーダーシップがあるから、それを活かすためにやはり心障者学級のある学校へ転校してはどうでしょう』と……。要するに『これ以上、見られない』という通告だったのです。同じ学校でも、先生によって考え方や方針はさまざまでした」 新しい学年を迎えることを、母娘2人で待ちわび文房具なども新しく揃えていたさなか、思いがけない拒絶に、しばらく途方に暮れた思いで過ごした。「学校へ -
「翔子さんが担った『ビリの役目』」算数はできなくても、みんなを優しく…
2009/04/15 00:00「知力も体力もひ弱ではありましたが、納得できないこともありました。翔子だけがずっと私と手をつないで登校するように、と言われたり、翔子は2歳からYMCAの水泳教室も通っていて、問題なく泳げるにも関わらず、プール学習も私だけが付き添わなくてはならない。しかも皆と違う色の帽子をかぶせること、両手に浮き輪をつけることなどをいわれました。理由を聞くと、『障害者が事故を起こすことは許されない』という理由でした -
「翔子さん5歳、書道教室を始める」障害者として括られることなく…
2009/04/14 00:00翔子さんが5歳のとき、同じ年ごろの子供4人を集めてスタートした『久が原書道教室』。それがいまや170人の大所帯になった。全日本書道連盟主催のコンクールでも3年連続のトップ賞獲得者を出すほど輝かしい実績を持つまでになった教室は、障害を持つ生徒も常に1割は在籍している。学生時代から書道『学書院』の故柳田泰雲先生に師事し、九段を持つ師範の腕前であった泰子さん。教えられることといえばやはり書道である。『お -
「地獄めぐりの日々」 藁をもすがる思いで、宗教団体に寄付をしたことも…
2009/04/13 00:00育児がはじまってからも苦しみは続いた。泰子さんがいうところの“地獄めぐり”は別の方向へ向かっていた。「『奇跡が起こらないことが奇跡』といってもいいくらい、願かけをしたのです」宗教に多額の寄付をしてしまったり、翔子さんを背負い線香とお経の本を持ちながらお地蔵様めぐりをし、実際に翔子さんのお地蔵を建ててしまったことも。「結局、2人で死ぬこともできず、藁にもすがる思いで、『病気平癒』を掲げている宗教団体 -
「ダウン症の子どもを授かる」クリスチャンの父は祈り、母は現実への絶望から…
2009/04/12 00:00「仮死状態で生まれた翔子は敗血症を起こしており、あと1日でも手術が遅れていたら生きることができなかったそうです。しかも、出産後に担当医は『ダウン症で、敗血症だから交換輸血をしなければ助かりません。なにもしなければ命の灯は消えてしまいますが、どうしますか?』と冷静に問われたそうです。要するに、ダウン症であるから助けるかどうかは、親の判断に任せるということ。そのとき、私は手術後の麻酔で眠っていたので夫 -
「三度消えかかった命の灯」喜びに満ちた待望の子育てがはじまるはずだった
2009/04/11 00:00翔子さんが生まれたのは昭和60年6月12日。「妊娠がわかってもホルモン注射を続け、心音がはっきりし、『もう大丈夫でしょう』と医師から言われたとき、足が震えるほどの喜びでいっぱいでした。42歳で私は子供を産むのだと、有頂天になっていました。とにかくあの頃の私は傲慢だったのです」夫の裕さんとは能を通じて知り合い、結ばれた。出会ったのは泰子さんが30代の初めごろ。「独身時代は、書だけではなく、短歌やお能 -
「生まれつき染色体が一本多い」ダウン症は誤解と偏見に満ちた忌むべき存在だった
2009/04/10 00:00妊娠中のCT検査などでは、障害が判明しなかったため、心の準備などまったくなく、思いがけない宣告だった。この時点で泰子さんは、ダウン症に対する正しい知識は皆無だったという。「産後、診断を受けてからは、すっかり視力が落ちてしまうほど、ダウン症について書かれた書物に目を通しました」ダウン症候群は、通常23対合計46本ある染色体が、生まれつき1本多い47本で(21番染色体が偶発的に3本ある)、先天的障害で -
「知能が全くありません」 終身刑の宣告、そして苦難を乗り越えて
2009/04/09 00:00「翔子がダウン症であると告げられたときは、まるで終身刑の宣告を受けたような衝撃がありました」大田区久が原で書道教室を切り盛りする多忙な日々の中、泰子さんは自宅兼教室に招いてくれた。この日は個展開催中なので翔子さんは留守。「こんなにたくさんの人が私の作品を見に来てくれるなんて、嬉しい」といい、毎朝早起きをして、自転車を漕いで会場へ駆けつけ閉館まで来訪者の対応に当たっているという。 記者が、その個展会 -
「龍翔鳳舞」 龍の先端から見事な尾が飛び出し、凰からは悠然とした羽が生えた
2009/04/08 00:00銀座書廊にて初の個展を開き、日比谷帝国ホテルでの祝賀会で初めての席上揮毫を行ったのは翔子さんが20歳のとき。そして、22歳では東京芸術劇場の創作バレエで千人の観客を前にし、5メートルの大壁紙に演目『まくべす』を、ほうきのような大筆を悠々と動かし書ききった。上野の瑞輪寺においては、長さ7メートル40センチの『念彼観音力』を約50人の僧侶たちの前で粛々と披露してみせた。ハラハラ見守る泰子さんの心配をよ