高田賢三さん「エーゲ海に散骨を」きょうだい会議で追悼計画
昨年2月の誕生日パーティ。世界中の人たちから慕われていた(写真:アフロ)

新型コロナウイルスにより、10月4日にこの世を去った天才デザイナー・高田賢三さん(享年81)。訃報を受け、出身地である姫路市できょうだい3人が会議を開いていた。

 

次姉・瑞子さん(84)宅に集まり、その後に近くのお好み焼き店で会食へ。

 

7人きょうだいの5人目として花街で生まれ育った賢三さんだが、デザイナーとしての才能の片鱗は少年時代から見え始めていたという。長姉の志津加さん(86)は、賢三さんの若かりしころを語る。

 

「賢三がファッションに興味を持ったのは、母親の影響が大きいんです。母はすごく着物が好きで、自宅には見本の布などがたくさんありました。私たちの服もすべて仕立てたものばかり。それくらい着るものにこだわっていました。

 

私も洋裁学校に進学したのですが、賢三は当時からデザイン画がすごく上手でね。よく私の学校から出された課題を手伝ってくれたりしていました」

 

また、次姉の瑞子さんは賢三さんのフランス行きを後押ししていたのだという。

 

「’65年に渡仏する前、賢三は六本木に住んでいました。するとマンションが改築になって、“立ちのき料”として大金が転がり込んできたんです。

 

そのとき、賢三から『軽井沢に別荘でも買おうかな』と相談を受けて……。だから私は『デザイナーとして成功したいなら、フランスへ行きなさい!』と叱りました。そのほうが、絶対に将来のためになると思ったんです」

 

姉の叱咤もあり、賢三さんは船で渡仏。KENZOブランドを設立し、世界へと羽ばたいていった。

 

しかし’90年には信頼するパートナーと死別し、経営は次第に悪化。’93年には、ブランドを手放すことになった。それでも、実弟・紀年さん(79)は当時をこう振り返る。

 

「私は、あの時期に会社を手放せてよかったと思っているんです。というのも、経営者だったころの兄は、好きな仕事だけに打ち込むわけにはいきませんでした。でも、晩年は一人のデザイナーとして自由に生きていたんです。

 

衣服以外のデザインをしたり、油絵に挑戦して個展を開いたり。思いのままやりたいことをやって過ごせていました。それは、兄がもっとも求めていたことでした」

 

今でも年に1度は食事会などを開き、必ず顔を合わせていたという高田家のきょうだいたち。紀年さんは遺骨が日本に帰ってきた後、こんな“追悼プラン”を思い描いているという。

 

「正直、今後のことはまだ何も決まっていません。ただあくまで私個人の意見ですが、遺骨が戻ってきたらまず一部を姫路にある先祖代々の墓に入れたい。そして残りは、エーゲ海などに散骨してあげたほうがいいのではと思っているんです。

 

今年の夏もバカンスに出かけていた思い出の地ですからね。日本の小さなお墓に入るよりも、のびのびして兄らしいんじゃないでしょうか。向こうの人たちも『KENZO!』と言って慕ってくれますし。いつか、きょうだいみんなで行って見送ってあげたい。そんなことを考えています」

 

KENZOは、亡くなった後も世界を旅し続ける――。

 

「女性自身」2020年10月27日号 掲載

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