■これからは家族の時間を取り戻そう、と平穏な日々に突然、妻が脳腫瘍に倒れる
『全員集合』が終わったとき、高木さんはこう思った。
「少しは家族の時間を取り戻そう。毎年、妻をハワイに連れていってあげよう」
ドリフのメンバーで、離婚も再婚もせず、1人の女性と添い遂げたのは、高木さんただ一人だ。
「毎朝6時に起きて、ペアのトレーナーで近所の江戸川公園まで散歩して、ラジオ体操をするのが夫婦の日課でした。散歩しながら、カミさんのおしゃべりを聞くのが楽しかった。本当になんでもない、たわいない世間話。それだけなのに、カミさんはうれしそうで。今までママのこういう話を聞いてあげる時間がなかったんだな、とつくづく思いました」
1990(平成2)年1月、豪華客船クイーン・エリザベス2世号に乗船し、水入らずでディナーを楽しみ、一泊したことが、夫婦いちばんの思い出だ。ツーショットの記念写真に、喜代子さんはこんな言葉を書き添えていた。
〈パパ57歳、ママ54歳、夢のようです〉
そんな平穏な生活がずっと続くと信じていた。ところが。
92年春、夫婦でいちご狩りに行ったとき、喜代子さんが異変を訴えた。
「目まいや吐き気がするのよ」
「更年期だろう」
高木さんは、そのとき軽く受け流してしまったことを、いまでも深く後悔している。検査を勧めたのは、かおるさんだ。その結果、脳腫瘍が見つかって、余命5年と宣告された。
喜代子さんには告知しなかった。
「これからの5年間、自分ができる限りのことをカミさんのためにしてあげようと心に決めました」
高木さんは、喜代子さんのために家を建て直すことにした。
「新居への引っ越しって、闘病の目標になるじゃない。車いす生活になるだろう妻のために、バリアフリーにして、ホームエレベーターもつけて」
病院の外出許可が出ると、建設中の家を見せ、妻を元気づけた。
「カミさんは手術のたびに『必ず元気になって戻ってくるから』と、言っていて。1回目、2回目の手術は治って出てきたんだ。でも、3回目のときは……」
93年秋、3回目の手術。
「退院したら、みんなで一緒にハワイに行きましょうね」
そう言って、手術室に向かった妻は、手術室から戻ってくると、体を動かせず、声も失っていた。
新居の完成は、その年の暮れ。
「もちろん僕は、必ず新居に連れて戻るぞの思いだけです。仕事もセーブしなかった。そのほうがカミさんも安心するし。『今日は“雷様”の本番だ』と言って、病室から出かけたりしていました」
しかし、心はいつもざわついていた。
「困ったのは口がきけなくなったこと。一方的に話すと、ウンウンとうなずいているように見えたり、涙ぐんだり。僕としては、目と目で会話できていると信じていました。僕が伝えていたのは、ただただ『ありがとう』ということです。カミさんですか? 僕はこんな男ですから、きっと『しっかりしなさい』だったでしょうね」
高木さんのことばかり心配しながら、喜代子さんは天に召された。94年3月25日、58歳の若さだった。
「余命5年のはずが1年8カ月で死んじゃった。さすがの僕も、医者にきつく当たってしまった。それ以来、医者の話を信じられなくなりました」
旅立った喜代子さんと病室で2人きりにしてもらった。出てきたのは言葉ではなく、堀内孝雄さんの歌『冗談じゃねぇ』。泣きながら、何度も何度も『冗談じゃねぇ』と、歌い続けた。
96年11月には、初のソロ・アルバム『ハワイアン・クリスマス』をリリースし、98年、65歳にして初めてのソロコンサートを開く。99年4月からはNHK教育で、ウクレレ番組のメイン司会と講師を担当。
ドリフ時代は、いかりやさん、加藤さん、志村けんさんを中心に、脇を固める「第5の男」を自任してきた高木さんが、ウクレレとハワイアンの伝道師として脚光を浴びる時代がやってきていた。
「カミさんは、僕のソロCDやソロコンサートのことを知らない。でも、いつも見守ってくれている気がするんです。カミさんが亡くなって、もう30年近い。ですが、いまだに家のなかにいるのを感じます。階段だったり、風呂場だったり。娘も同じようで、『ねぇ、今日、ママ来てたよね』と言うと、『うん、いたね』という会話をしています」
これからも喜代子さんに見守られながら、100歳のウクレレ弾きを目指して進んでいく。