元ちとせ 反戦歌『死んだ女の子』原爆ドーム前での共演でふれた坂本龍一さんのやさしさ
画像を見る 「娘たちには『ありがとう』『ごめんなさい』だけは厳しくいいました。対等の関係で、カラオケでも私の歌を歌ってくれます(笑)」と元さん

 

■広島平和記念資料館で衝撃を受けて『死んだ女の子』に向き合った

 

79年1月5日、鹿児島県大島郡瀬戸内町で生まれた元さん。

 

19歳の秋に上京し、数寄屋橋のCDショップでアルバイトをしながら、デビューに備えた。

 

「ちょっとデモ盤を録るから」

 

所属した音楽事務所の当時の社長でプロデューサーも務めていた森川欣信氏(70)からある1曲を渡されたのは、このころのことだ。

 

「それが、『死んだ女の子』でした。単純に、なんで、こんな怖いタイトルの曲をと思いました。歌詞も原爆で幼い女の子の髪の毛が焼けたりするという内容で、正直、私の中ではどういう感情で歌に向き合っていいのかわからなくて。その録音のあとは私自身、歌いたい気持ちも起きないままでした」

 

時間は、少しさかのぼる。デビューしてすぐのことだった。

 

「夏に音楽イベントがあって、広島に行ったとき、初めて広島平和記念資料館を訪れました。正直に言うと、最初はどんなところかわかっていなくて、遠足のような気分で出かけてしまったのですが、一歩、資料館に足を踏み入れたときの温度感や、展示されていた被害の現実は衝撃的でした。原子爆弾の熱線で石段に焼きついて残っていた女の子の影も実際に見ました。当時、私は24歳で自分はもう大人だと思っていましたが、こんな大切な歴史の真実も知らないで大人だと思っていた自分を恥ずかしいと感じたんです」

 

資料館を出て、原爆ドームを見上げながら、同行していた森川氏に言った。

 

「『死んだ女の子』って、こういうことだったんですね」

 

続いて、こう口にしていた。

 

「もう一度、歌ってみたいです」

 

こんな心境の変化があった。

 

「イベントなどでシマ唄を歌いはじめたとき、誰かが拍手をしてくれて、そのときの喜びがそれまで私を歌わせてくれていました。でも、今度は、私の歌を聴いた人が、何かを感じてくれたり、考えたりするきっかけになるような歌手になりたい。そう思ったんです」

 

そこから、『死んだ女の子』のレコーディングの準備が始まる。

 

「この曲をどんなふうに伝えたらいいか、すごく悩みました。そのうち、世界中の人や偉い指導者たちがこれを聴いて、平和について考えてほしいなと思うようになって。そんな葛藤のなかで、“世界のサカモト”にお願いしてみたいと思ったんです」

 

こうして、前出のとおり、ニューヨーク在住の坂本さんとコンタクトを取って快諾をもらった元さんは、日本を旅立つのだった。

 

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