「お笑い界の母」児島気奈さんK-PROライブ立ち上げの裏にあった村田渚さんとの出会い
画像を見る 芸人とお客さんが満足できる舞台を作るため、スタッフ全員が緊張感をもって働く開演前。もちろんみんな黒ずくめ(撮影:ただゆかい)

 

■「介護に疲れた母を笑わせたくて」見せたお笑い番組が人生を変えた

 

ガッチャン、ガッチャンと機械音が響く町工場が密集する下町で、児島気奈さんはペンキ店を営む両親の長女として、’82年2月24日に生まれた。

 

「1階がお店で2階が自宅。塗装工の職人さんが集まっては宴会をする、にぎやかな家でした」

 

家で夕飯の支度をする母(67)を手伝うのは妹2人で、気奈さんはペンキを積み込んだ配達車に乗り込み、父(67)と得意先を回っていた。

 

「ペンキのにおいが充満する仕事の車はもちろん、何より父のことが好きでした。お笑い好きになったのも、食卓で父が冗談を言って笑わせてくれたから。少し真面目な高田純次さんという感じですね」

 

父の影響でお笑い番組や芸人の世界に引き込まれた気奈さん。小学校高学年のとき、“お笑いの力”を痛感する出来事が。

 

「寝たきりだった祖母が、介護する母にきつくあたることが増えていったんですね。でも母は、家事も店の切り盛りも介護もあってクタクタだったんです」

 

疲れた表情の母を癒してあげたい――。そう思った気奈さんは、お笑い番組のビデオコレクションから一本のテープを手に取った。

 

「エネルギーさんというコント師のネタを見せると、お母さんが涙出るくらい笑ってくれて! それが私にはうれしかったんです」

 

お笑いには、人を幸せにする力がある! と気づいた瞬間だった。

 

“こんなに素敵なお笑いは、みんなも好きに違いない”と信じて疑わなかった気奈さん。しかし、現実は違ったという。

 

「中学校の入学式の日、『お笑いが好きです』って自己紹介したあとつぶやきシローさんのモノマネをするとシーンとなって……。人生初すべりでした(笑)。

 

クラスの女のコは人気アイドルに夢中で、お笑い好きは幼く見えたのかもしれません。私も尖っていたので『わからないなら、もういいです!』とばかりに、女のコとしゃべることもなくなったんですね」

 

それでも、お笑い番組さえあれば孤独を感じることはなかった。

 

「朝から晩まで、家中のビデオをフル稼働させて、全番組を3倍録画。部活が終わって学校から帰ると、ビデオを早送りにして、お笑い芸人が一瞬でも出ていたらダビングして保存していたんです」

 

絶対に逃せないラジオ番組は、学校にこっそりラジカセを持っていき、トイレの掃除用具置き場で録音した。

 

「『笑っていいとも!』にネプチューンさんが出演するときは、給食の時間に家に帰ってテレビを見て、猛ダッシュで学校に戻ったりしていました」

 

携帯のメールもSNSもない時代、雑誌の文通コーナーは、情報収集の貴重な場。地方に住むお笑い好きに《NACK5でゴスペラーズのラジオを録音したテープがあるので、大阪の芸人が出るビデオと交換してください》と手紙を書いた。

 

そんな文通相手の一人からあるとき、《今度、お笑いライブがあるんだけど、お手伝いに行かない?》との誘いが。これを機に、気奈さんの運命が大きく変わる。

 

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