■「11人の大家族」勝俣家祖母の教えは「陰口をたたいたら、バチが当たる」
その原点は幼少期にある。いざなぎ景気の始まった1965年、勝俣家の長男として生誕。年を追うごとに妹や弟が増え、7人きょうだいになり、祖父母と両親を含め、11人の大家族になった。両親は衣料販売店を経営していたため、昼間は祖父母が面倒を見ていた。
「ばあちゃんから、いろんなことを教わりましたね。近所で陰口で盛り上がってるおばさんたちがいると、『まねしちゃダメだよ。バチが当たるから』と注意された。子供ながらに『バチ』という言葉がすごく怖かった。神様が見てないところでも、悪事を働いたらケガや病気をするんだ……って」
“自営業の大家族”ゆえの悩みもあった。あるとき、食卓で景気の浮き沈みを実感した。
「育ち盛りの7人の子供がいるのに、ご飯と湯豆腐だけの日が続いたんです。最初は湯豆腐のなかに鶏肉とねぎが入っているけど、そのうち鶏肉が消え、次にねぎがなくなり、豆腐だけになった(笑)」
6人の妹や弟が「友達の家はもっといいものを食べている」と疑問を投げかけた。すると、母親は「ほかの家庭を羨んじゃダメよ。目の前にあることを幸せと思わなくちゃ」と教えてくれた。
「お中元でカルピスが送られてきても、7人で分けなきゃいけないから、めっちゃ薄くなるんですよ。冷凍庫で凍らしてシャーベットにしたり、先に原液を口に入れてから水を飲んだり、各自で濃い味を楽しめる方法を考えていました。
ケーキがいちばん困りましたね。親父は『7等分にしとけ』と言うけど、奇数には切りづらい。だから、誕生日の人は2つ食べられるというルールにしました。そしたら、『デカした!』と褒められました」
与えられた場をどんな知恵で乗り切るか。のちに、バラエティで活躍できる素地は幼少期から育まれていた。
だが、芸能界に興味はなかった。小学6年のときの担任に憧れ、国語教師を目指し、その先生と同じ日本大学文理学部に進学した。
「4年の春、職員室に行って『先生になれますか』と聞いたら、『成績上位の3人しかなれない』と言われた。先生って、人間性で決まると思っていた。親父に『もう授業料払わなくていい。仕送りもやめて』とすぐ電話しました」
なぜ、自主退学を即断即決できたのか。
「先生になれないなら、大学に通う1年がもったいない。その代わり、卒業した人以上にお金を稼ぐと決意しました」