「誰も僕をライバルだと思わない」「テレビは学芸会」勝俣州和語る芸能界37年“ファン0人説”も生き残れた本当の理由
画像を見る 86年に「劇男一世風靡」入門(写真は87年)。路上パフォーマンスを繰り広げた。選抜組が“一世風靡セピア”に

 

■初対面の萩本の前で「シャーッ!」と気合を…「私の探してる理想形」(萩本)

 

潔い決断が勝俣の運命を変える。弁当店の店長として働きながら、根性をつける目的で「劇男一世風靡」に入門。朝5時から仕事、午後は稽古に明け暮れた。そんな生活が2年ほど続き、事務所から「欽ちゃんの新番組のオーディションに行ってきて」と指示された。

 

「柳葉(敏郎)さんが『欽ドン!』(フジテレビ系)の良川先生役でブレークしていたので、『同じ劇団にいいヤツいない?』と声が掛かり、僕と中野英雄さんが受けました」

 

初対面の萩本に「なんかできるの?」と聞かれた勝俣は、「はい!」と大声を出して立ち上がった。「じゃあ、ちょっとやってくれる?」と言われると、「シャーッ! シャーッ!」と気合を入れた。

 

「叫ぶだけで、何もやらないんだよ(笑)。そのときね、私の探してる理想形だと思った。自分のしたいネタを持っていると、言うこと聞かないんですよ。元気さと素直さがあれば十分」(萩本)

 

勝俣は萩本のもとで週6日、1日12時間を超す猛稽古を経て、’88年春『欽きらリン530!!』(日本テレビ系)にレギュラー出演。秋にはCHA-CHAの一員として、歌手デビューを果たす。

 

「田舎に帰って弁当屋を開こうと考えていた人間が、いきなりアイドルですからね。めっちゃ楽しかったですよ。超モテましたもん。テレビ局に入るとき、何十通も手紙をもらうし、毎日ファンの作ったお弁当を食べていましたから」

 

雑誌に「好きなもの:お酒」「欲しいもの:自転車」と載ると、自宅を知るファンが届けてくれた。

 

「陶器ボトルの『ナポレオン』とかガンガン送られてきて、アパート中が酒だらけになりました。自転車も5台送られてきた。『勝俣州和』と名前を書いたら、次の日に全て盗まれました。たぶん、ファンのコだと思います。新たに5台来たので、今度は『嶋田源一郎』に変えたら、大丈夫でした。天龍源一郎の本名は効き目がありましたね(笑)」

 

女性にチヤホヤされても、勝俣は次の戦略を冷静に練っていた。

 

「ファンは優しいから、何を言っても笑ってくれる。でも、勘違いしちゃいけない。活動中から、何人ものコに『彼氏できたんで卒業します』と伝えられたし、解散したら彼女たちはいなくなる。だから、コンサートのときも男にウケるような話ばかりしていた。そしたら、どんどんファンが減っていきました。それが『0人説』につながったんじゃないですか(笑)」

 

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