「誰も僕をライバルだと思わない」「テレビは学芸会」勝俣州和語る芸能界37年“ファン0人説”も生き残れた本当の理由
画像を見る 88年9月7日、男性アイドルグループCHA-CHAのメンバーとして『Beginning』でデビュー。'92年1月に解散した

 

■CHA-CHA解散時にバカな勘違いを「俳優を極めようと思ったら危なかった」

 

勝俣は昼帯の『欽ちゃんのどこまで笑うの!?』(テレビ朝日系)、夕方帯の『欽きらリン530!!』のレギュラーだった。昼の番組が終わると、萩本と一緒に車で移動した。その際、「聞いちゃダメ」と若手にくぎを刺す師匠の掟を破り、数々の質問を投げ掛けていた。

 

「いろんな人から聞けば聞くほど、萩本欽一がテレビの元を作っている。志村けんさんは若手時代、テレビ局にあるコント55号の台本を持ち帰り毎週読んで勉強していた。とんねるずが売れ出したときも、フジテレビですれ違った志村さんが『萩本欽一を見たほうがいい』とアドバイスしたらしいんですよ。『乱暴なイジり方だけじゃダメだよ。突っ込みの極意が萩本欽一にあるよ』って。だから、僕はいろいろな質問をしていました」

 

萩本は「聞いちゃダメ」の真意をこう明かす。

 

「自分の頭で考えなきゃ、成長しないんですよ。ただ、理由はもう1つあるね。『何でも聞きに来ていいよ』と言ったら大勢来るでしょ。そんなに時間は取れない。だから『聞いちゃダメ』と壁を作っていたの。それを飛び越えてくる本気のヤツには教えるんですよ」

 

歌、芝居、バラエティと何でも対応できたゆえに、勝俣は道に迷いそうになる。CHA-CHA解散発表時、〈芝居をベースに10年は突っ走るだけ〉(『明星』’91年12月号)と目標を語っていた。

 

「いちばんバカなときですね。俳優の仕事は来ませんでした。今振り返ると、非常にラッキーでしたね。僕は高校では『モッくんに似ている』ともてはやされて4校にファンクラブがあった。でも本木雅弘さんと共演したら、全然違っていた。冷静に見ると僕って全然カッコよくないんですよ。(大型犬の)アフガン・ハウンドと見すぼらしい捨て犬ほどの差があった。勘違いして俳優を極めようと思ったら、危なかった」

 

お笑いに道を定めた勝俣は萩本からの指導を復唱し、著書を何冊も読み返した。そして、バラエティの依頼があると、ありったけの力を出した。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)でボウリング対決をしたとき、勝俣のチームが勝った。すると、とんねるずの2人が「もう1回、もう1回」と試合の無効を求めてきた。

 

「小さいころ、ばあちゃんに『人にお願いするときは丁寧な言葉遣いをしなさい』と教えられてきたから、『人にモノを頼む態度じゃないですよ!』と抗議した。場が凍りましたよ(笑)。そしたら、2人が膝をついて頭を下げた。プロデューサーのテリー(伊藤)さんが『面白いね?。来週も来てよ!』とレギュラーにしてくれたんです」

 

とんねるずの対決企画で“泣きの1回”として土下座を定着させた勝俣は、“芸能界の番長”と恐れられる和田アキ子にもひるまなかった。

 

’96年1月、『アッコにおまかせ!』(TBS系)の生放送でバンジージャンプに挑戦したものの高所恐怖症で跳べない。企画が持ち越された翌週、和田が「今日跳ばないとシャレにならないでしょ」と重圧をかけた。すると、勝俣は「アッコ出てこい! ぶっ飛ばしてやるから!」と言い返した。

 

「結局、酸欠になって跳べなかった。暴言も吐いたし、ヤバいな……と気落ちしたまま局に帰って、『すみませんでした』と土下座しました。そしたら、『おもろかったで。アッコにあんなこと言うヤツ、初めてや。来週も頼むで!』と笑ってくれたんです」

 

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