美輪明宏が「天才」と評するアーティスト・田村大 無名のころからブレない“こだわり”
画像を見る 世界中からオファーが絶えないアーティスト・田村大さん(撮影:松蔭浩之)

 

ボールをペンに持ち替え、絵のトレーニングを一から始めると決意、専門学校桑沢デザイン研究所への進学を目指すことに。

 

幸代さんが言う。

 

「あの子はいつも事後報告。常に『それ以上聞かないで』というオーラを出しているんです。ただ、ずっと『好きなことをやりなさい』と言い聞かせていましたから、そのときも反対はしませんでした」

 

急いで美術教室に通い試験対策をしたが、準備が間に合うはずもなく、結果は補欠枠の44番。だが、ギリギリで繰り上げ合格をはたす。

 

「入学したら、隣の席の人が落書きをしていたんです。同じ夢を抱く人に囲まれた、念願の環境を得られたことを喜びました」

 

とはいえ、美術に関しては同級生と比べて周回遅れの状態。巻き返しを図るにあたって役立ったのは、バスケ漬けの生活で培った精神力。「いままでは準備が足りなかっただけ、二度と負けない」と、授業で出される大量の課題を全力でこなしていった。

 

「1年生の前期で首席が取れました。2年生からは広告を専攻することに。イラストの世界で食べていくには、まず広告ビジネスを学ぶべきと考えたからです」

 

卒業後は縁あってバスケットボール用品を扱うメーカーにデザイナーとして就職。高校時代、バスケ部のスポンサーをしてくれていた会社の一つだった。

 

「社長が学生時代の僕のことを覚えていてくれたんです。元バスケ選手でデザイナーなんて珍しい、うちに来いと。会社では朝から晩までプロダクトデザイン、グラフィックやロゴ制作に携わっていました」

 

入社2年目のころ、会社がスポンサーを務めるバスケチームがbjリーグ(当時)で優勝する。記念に選手の似顔絵を描いたTシャツを制作すると、たちまち社内で大評判に。

 

「このとき、僕がいちばん描きたいのはやっぱり『人』なのだと、改めて気づかされました」

 

その信念を追求するため、すぐに新たな行動を起こす。ネット検索で見つけた似顔絵教室に、週末の時間を使って通い始めた。

 

「また一からのスタートでしたね。教室の最終競技会では2位でした。優勝者はすでに多くの賞を持っている有名な方でしたが、それがとても悔しくて」

 

誰にも負けない実力を養うには、週末だけでは修練が足りない。技術をもっと徹底的に磨かなくてはダメだ──。そう痛感した田村さんは、安定した企業デザイナーの職を1年8カ月で辞めてしまう。そして、27歳で似顔絵の世界に飛び込んだのだ。

 

“石の上にも三年”という言葉を引き合いに「最近の若者はすぐ辞める」と批判するベテラン世代もいるかもしれないが、彼の決意はそれとは大きく異なる。

 

「専門学校に通っていたころ、時間を作っては趣味でバスケを続けていたんですが、練習中にアキレス腱を切ってしまって。そこで気づいたんです。中途半端こそ、何より時間のムダになっていると」

 

絵に専念すべきだという天からのお告げだと考え、夢のために大好きなバスケも封印した。そして、人を描くことを仕事にするため、似顔絵制作会社に転職。7年間で3万人もの似顔絵をがむしゃらに描き続けた。目指す頂は「似顔絵界の世界チャンピオン」。

 

その後、会社の代表として世界大会へ挑戦する。初出場の2013年(米フロリダ州)は10位、2015年(米オハイオ州サンダスキー)は4位に入った。

 

そして迎えた2016年の「ISCAカリカチュア世界大会」(米アリゾナ州フェニックス)。田村さんは直前に思いついたピカソのキュビズムを彷彿とさせる大胆なタッチで臨んだ。油性マーカーを使った緻密な手描き表現が功を奏し、見事総合優勝をはたす。

 

「もちろんうれしかったのですが、帰国して日常に戻ると、『以前と何も変わっていないじゃないか』という心境になったんです。また現状から飛び出したくなってしまって(笑)」

 

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