■「学芸会の観客の反応がうれしくて、気持ちよかったのを覚えています」
彼の演技の原点は、小学2年生の学芸会だった。
「『こぶとり爺さん』の悪い爺さん役で、両頬にこぶをつけられて『エーン』と泣いて幕が下りる。観客の反応がうれしくて、気持ちがよかったのを覚えていますね。中学時代には『リア王』の道化を演じたこともありました」
高校では美術部に所属した。
「油絵を描くことと、麻雀の面白さに目覚めちゃって、勉強もなおざりに。学校でも目立たない存在でした」
このころ描いた『夕焼け』三部作の中の一枚を出品して、北海道展で入選を果たしている。
高校卒業後に上京し、専門学校のデザイン科へ進学。青春を謳歌するはずだったが……。
「冬休みに姉と群馬県へスキー旅行に行ったんです。実は風邪をひいていたのですが、スキーが得意だったから準備せずに滑り出した途端、アイスバーンで転んでしまって左腕を骨折。救急車で群馬県の病院に運ばれました」
脱臼と複雑骨折の大けがを負い、手術するも回復に至らず、北海道の病院で再手術。さらに千葉県の病院に転院と、のべ8度手術を繰り返した。一時は肘が90度しか曲がらず身体障害者7級の認定を受けそうになる。18~20歳の2年間、入退院を繰り返す生活を余儀なくされたのだ。
服の袖をめくり、記者の眼前で今も腕に残る傷痕を見せてくれた。
「手術の繰り返しで脱臼して関節が外れたままで、骨折箇所もくっ付いておらず、千葉の病院では骨盤の骨を移植し大腿部の筋を取って、その関節に巻くという複雑な手術をおこないました。今もね、左手は左肩につかない」
痛みに耐える日々を送った一方で、思わぬ出会いも。北海道の病院では看護師の女性と恋におちた。
「お互い20歳になったばかりで、退院後に一緒にディスコに行って。東京に戻る際、“夏休みになったら再会しよう”と約束したんですが、僕が千葉の病院で入院と手術をしたので帰れなくて……。
1年後、ようやく北海道に戻ってデートしたとき、彼女は別の男性との結婚が決まっていたんです。『私を連れて逃げて!』と言われたけれど“小日向の息子が婚約中の女のコを連れて東京に逃げた”といった話が地元で広まってしまうのはありえないよな、と泣く泣く諦めました」
両親に迷惑をかける選択肢はなかったようだ。傷心のまま東京に戻り、専門学校の写真科へ入り直し学生生活を再開させた。
「父が最初の病院に交渉してくれたんです。手術ミスを認めた病院から、手術代と入院費用を出してもらったおかげで授業料や、カメラの購入費用を賄えました」
そんな彼に突如、ある決意が芽生えたのは2年後、専門学校の卒業間際のことだった。
「上京後はほとんどが入院、手術と壮絶な日々。だから卒業を機に『自分は本当に何をやりたい? 神様が好きなことをやらしてくれるなら何をやりたい?』と、自問して自分と向き合いました。
そうしたら『俳優になりたい』『小日向文世という存在を人々に認識してほしい』─そんな思いが湧き上がってきて。あれだけ痛い思いをしたんだから、後は好きなことをやろうと心に決めました」
暗黒の青春時代を経験してこその決断。そこで当時大ブレークしていた中村雅俊や松田優作らを輩出した劇団文学座養成所の試験を受けるのだが……。
「30人の募集に、約6千人が応募していて、何の準備もしてない僕は落ちました(苦笑)」
とはいえ、転んでもただでは起きない。バイト先の知り合いから中村雅俊や矢沢永吉のコンサートの企画運営会社の社長を紹介され、そこで仕事をすることになった。
「中村さんのコンサートの楽屋を設営したり、ステージにドライアイスを出したり、付き人の仕事もしながら『早く自分もスポットライトを浴びる側に!』と、劇団全般について調べていました。
中村さんからも『お前さ、スタッフをやっているのも、役者を目指すんだったらちゃんとしたところに行ったほうがいいぞ』と、言葉をかけられたんです」
中村雅俊に「そのつもりです」と笑顔で答えた小日向さんの頭の中には、すでにある劇団の名前が、浮かんでいた──。
