■介護シフトを組み最期は自宅で
告知から1年が過ぎた’25年の秋、眞弓さんは「自宅に戻る」ことを決意する。それは同時にアンナさんたちが「付きっきりで見守る」最期のときを意味していた。
「私の家族と介護職の友人や仲間で見守りシフトを作りました。母もその友人を大切に思っていて、血のつながりだけが家族じゃないと感じました。ときどき『プリン食べたい』とか、純粋な本能というか、いい意味で欲=力を出して。『まったく~』と言いつつ、ママの希望の品を買いに走るのも楽しかった」
ベッドへの移動、トイレの介助も大変だったが、娘としての強さも育まれたという。
「ママからすると、人前でパンツを脱ぐのは嫌なはずです。でも、ずっと私のために強くいてくれた母が弱くなっていく姿を見て、逆に私は守らなきゃと強くなれた」
眞弓さんの口癖だった“やるしかないじゃん”“なんとかなるっしょ”という言葉もアンナさんを励ました。
「大好きなシャンパンが飲めなくなり、食事もできなくなったときに、“完璧じゃない”ことを受け入れた ママの“完璧”さは、カッコよかったです」
自宅に戻り1カ月後。12月12日、眞弓さんは静かに旅立った。
「その日は、ママは目を開いていても意識があるかどうかで。私は子どもの食事の支度のためにいったん、近くにある自宅に戻っていたんです。2時間ほどして、息子から『いま、息を引き取った』と連絡がありました。みんながコーヒーを飲みに母の近くを離れていたタイミングだったそうです。本当にみんなでやりきったよね、ママ」
アンナさんが長期の地方公演へ行く前に急遽のお別れ会となった。
「棺にお花を入れるとき、娘たちが、ディズニーのラプンツェルの長い髪に見えるようにと、ママの髪に花を飾っていました」
子どもも一緒に看取れてよかったと母の顔を見せるアンナさん。
「子どもたちも死は怖いものではなく、亡くなった後も絆が続いていることを感じていると思います。娘たちは『子ども部屋に遺影を飾りたい』と言って、母の遺影に、毎日、おままごとの容器にお茶をいれてお供えしてるんです」
眞弓さん逝去後初めての母の日。
「ママ、とりあえず私は大丈夫。遺骨の一部は、希望どおり一緒に旅した加計呂麻島の海にまくからね」
画像ページ >【写真あり】シャンパンが大好きだったという眞弓さん。母と娘で何度もお酒を酌み交わした(他2枚)
