2013年、IOC新会長に選ばれ、妻のクラウディアさんから祝福されるバッハ会長。“スポーツ官僚”の最高の地位についた瞬間だった。目には涙が(写真:Alexander Hassenstein /Getty Images) 画像を見る

14歳で父を亡くすという不幸に見舞われながらも、フェンシングの西ドイツ代表として、1976年のモントリオール五輪のフルーレ団体で見事金メダルを獲得したトーマス・バッハ氏。現在、IOC会長として”ぼったくり男爵”と呼ばれる彼が、その異名通りの活躍をするのは、“アスリート後”の人生においてだった。

 

■アディダスで始まった出世街道

 

20代でアスリートとしての絶頂を迎えたとき、バッハ氏はドイツの名門・ヴュルツブルク大学の学生でもあった。1980年、“アスリート後”の人生を決定づけることがあった。前年のソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、モスクワオリンピックを西側諸国がボイコットしたのだ。

 

「あまりに苦い経験でした。二度と選手に同じ経験をさせたくない」

 

そう思ったというバッハ氏は“スポーツ官僚”の道を志すことに。1981年、新設されたIOCアスリート委員会の初代委員に選ばれる。これは現役選手や元選手を主体とし、選手の意見をオリンピックの運営に反映させることを目的とした委員会だ。

 

当時、五輪のアマチュアリズムは今よりも徹底されていたが、バッハ氏は元選手として、サマランチ会長(当時)の持論だった「プロ選手の参加解禁」の“代弁者”となる。そのことで、サマランチ会長から寵愛を受けるようになったようだ。

 

1982年には弁護士の国家試験に合格、翌年には法学の博士号を得る。バッハ氏が最初に選んだビジネスの舞台は、サマランチ会長の“盟友”ともいわれたホルスト・ダスラー氏が会長を務めていたアディダス社だった。まだ30代前半にもかかわらず、国際関係部門の部長を任されることに。

 

これを皮切りに、さまざまな大企業で顧問や監査役などの役職を得て、ビジネスの世界でも成功を収めていくのだ。

 

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