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完成前の平和の礎を視察する大田昌秀さん(右)=1994年12月13日、糸満市摩文仁

 

多くの学友を失った沖縄戦体験を原点とし、戦争と米軍基地のない平和な沖縄を希求し続けた元県知事で琉球大名誉教授の大田昌秀さんが12日、死去した。「平和の礎」を建立し、平和のメッセージを沖縄から発した。少女乱暴事件に抗議する1995年10月の県民大会で「幼い少女の尊厳を守れなかった」と謝罪し、基地の重圧を沖縄に強いる日米両政府に厳しく異議を申し立てた。家族や教え子に見守られ、92歳の誕生日にこの世を去った大田さんの訃報に多くの県民が悼み、その人生を懸けて追い求めた平和を守り抜く決意を新たにした。

 

「先生ありがとうございました。お世話になりました」-。12日午前、県知事や琉球大教授などを務めた大田昌秀さんは、家族や教え子に囲まれながら、那覇市内の病院で静かに息を引き取った。教え子らは感謝の言葉を最期に掛けた。浦添市内の葬斎場で開かれた通夜には、教え子や親族らの弔問客が途切れなかった。

10日には大好きなワインを口に含み「誕生日もワインを」と笑顔を見せていたという。

 

誕生日の12日、病室で教え子らが「ハッピーバースデー」を歌うと、大田さんは目を輝かしていたという。歌い終わった途端、眠るように息を引き取った。亡くなる朝、三男らが家族の写真を見せ「親父、頑張れ」などと話し掛けると、手を握り返す反応もあったという。4月に入院し、2週間ほど前から病状は一進一退を繰り返した。

 

最期を見届けた教え子の玉城真幸さん(75)=南風原町=は「『(各市町村の)字誌に出てくる戦争体験をどうしてもまとめたい』と話していた。やり残したことがたくさんあっただろう」と、目を潤ませた。

 

大田さんが理事長を務める沖縄国際平和研究所(那覇市)には、弔電に交じり誕生日祝いのコチョウランも届いた。この日は休館となったが、職員の藤沢英明さんは「13日は開けようと思う。沖縄戦を伝えようとした大田も、それを望んでいるでしょう」と述べた。

 

那覇市内の病院から、12日午後4時半ごろに浦添市内の葬斎場に到着した。弔問に訪れた元副知事の比嘉幹郎さん(86)は「大事な兄貴分を失った感じだ」と声を落とし「いつも激励され、家族ぐるみの付き合いをさせていただいていた。至極残念だ」と話すと、言葉を詰まらせた。

 

大田県政時代に知事公室長などを歴任した高山朝光さん(82)は「全国や海外に沖縄のことや平和をアピールし、果たした役割は極めて大きい」と死を悼んだ。

 

沖縄女性研究者の会の会長、大城智美さん(67)=うるま市=も通夜に駆け付けた。「『沖縄の女性のリード役になってほしい』と励まし力を貸してくれた。大田さんと出会えたのは大きな財産だった」と話した。

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