教科書検定意見撤回を求める県民大会で「沖縄戦の実相を正しく後世に伝えよう」と訴える那覇市長時代の翁長雄志氏=2007年9月29日、宜野湾海浜公園

 

辺野古新基地建設の阻止に命を懸け、「殉職」した。新基地建設を強行する安倍政権と対峙(たいじ)したのは、ウチナーンチュの自己決定権と民主主義を求める強い意思からだった。

 

知事初当選後、4カ月以上たってようやく安倍晋三首相との面談が実現した際、記者として立ち会った。報道陣に公開された冒頭、翁長知事は畳み掛けるように県民の思いをぶつけた。「世界一危険だから沖縄が負担しろ、こんな理不尽なことはない」―。政権への痛烈な批判に、官邸側は慌てて知事の発言を遮り、報道陣を退席させた。追い立てられ部屋を出される間際、振り返ると知事がなおも話し続けていた。その怒りのこもった目が忘れられない。

 

政治家としての前半生は“自民党本流”であり、沖縄の保守政治を牽引した。

 

消費税導入の逆風が吹いた1989年の那覇市議選では、無所属を選ぶ議員が相次ぐ中、あえて自民党公認候補となり、2期目の当選を果たした。

 

98年の知事選では大田昌秀県政の与党だった公明党を稲嶺恵一氏への選挙協力に導いて自公態勢を構築した。県議で自民県連幹事長だった99年当時、辺野古移設に関しては今とは正反対の移設推進派だった。

 

その自民党と距離を置き始めたきっかけは2007年の教科書検定問題だった。高校歴史教科書で沖縄の「集団自決」(強制集団死)の「日本軍に強いられた」などの文言を削除・修正する検定意見が出た時、検定意見撤回を求める県民大会の実行委員会に加わった。「ウチナーの先祖があれほどつらい目に遭った歴史の事実が無かったことにされるのか」と憤った。

 

10年の仲井真弘多知事の2期目の選挙では、当初断っていた選対本部長を務めた。渋る仲井真氏を説得し、普天間飛行場の「県外移設」を公約に掲げさせた。応援演説で「県民の心を一つに」と何度も呼び掛けた。4年後には自身のスローガンとなり、オール沖縄のシンボルとして沖縄の民意を背負った。

 

5月25日、琉球新報の新社屋落成式典でお会いし、病状を聞いたのが最後だった。首筋が痛々しいほど細く、しかし眼光は炯々(けいけい)として強かった。

 

知事選に当選した時、妻・樹子さんと「万策尽きたら辺野古のゲート前に夫婦で座り込む」と約束したという。日本という先進国で、公正な選挙で選ばれた地域のリーダーが、地域の海をどうするかを巡って座り込み、それを本土から来た機動隊員が排除する。その光景が現実になった時、日本は民主主義の国と言えるだろうか。知事は沖縄の自治権、民主主義を繰り返し問うた。

 

政治家の息子として生まれ、「基地を巡ってウチナーンチュ同士がいがみ合うさまを見せつけられた」とよく語っていた。「それを高見で笑っているのは誰か」と付け加えるのが常だった。それへの憤りが国との対峙を支えたのだろう。

 

「僕は政府に怒っている姿しか報じられないけど、酒を飲んだら僕ほど楽しい人はいないよ」と茶目っ気のある表情を見せた。繰り返した「子や孫へ誇りある沖縄」が実現した時は、大好きな泡盛で乾杯をしてほしい。(島洋子)

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