県生麺協同組合のまとめによると、4月の生麺出荷数は前年同月比46%減とほぼ半減した。1カ月で約136万食の消費が消え去った計算だ。生麺にはラーメンやうどんも含むが、その数字のほとんどは沖縄そばだ。稲嶺盛健理事長は「3月は食堂が開いていたからまだよかったが、緊急事態宣言以降、多くが臨時休業している。それが原因だ」と肩を落とす。新型コロナウイルスの影響は“県民食”を支える生産現場も直撃している。
沖縄の代表的な食として定着したのは戦後のことで、現金収入を得るために女性たちが各地で食堂を開いたことが、外食産業としての沖縄そばの始まりだという。今では、県内で1日に19万~20万食が消費されていると言われる。
各地の製麺所がそれぞれこだわりの麺を作り、県民の胃袋を満たしてきた。観光客が途絶え、納品する飲食店が休業を余儀なくされる今、庶民の食を守ってきた中小零細の製麺所が危機に立たされる。
組合は呼び掛ける。「今こそ週に2回は家庭で沖縄そばを」―。
危機乗り越え、庶民の味に 県民の家庭消費期待
食堂、家庭、学校給食など、沖縄のあらゆる場所で食されている沖縄そば。1日20万食とも言われる消費を食べ支えるのは、今や県民だけではない。観光客も滞在中に一度は食べる「沖縄グルメの代表」として定着し、沖縄観光のリピーター呼び込みにも貢献する。
麺類が中国から沖縄に伝えられたのは450~500年前と考えられている。そこから改良を重ね、琉球王国宮廷料理として「沖縄そば」が確立。長く王族や一部の富裕層の食べ物だったが、昭和に入り、庶民も少しずつ食べられるようになった。
それが現在のような庶民の食となったのは、沖縄戦後の収容所からだった。米軍から無償で配給されていたメリケン粉(小麦粉)で沖縄そば作りが始まったことだった。貨幣経済への移行後は女性たちが商売として食堂を始め、沖縄そばを納入する製麺所が増えていった。
現在は大手の製麺所もいくつかあるが、「県民食」を支えるのは今も多くが小さな製麺所だ。これだけ多くの製麺所が安定して製麺できるようになったことについて、県生麺協同組合の稲嶺盛健理事長は「かん水と小麦粉がポイントだった」と説明する。
麺作りで、かつてはガジュマルなどを燃やした「木灰」を入れた水の上澄みを使っていた。1961年に、小麦粉に混ぜることで柔らかさや弾力性を持たせるアルカリ性物質「かん水」が使われるようになったことで、手順が簡素化された。小麦粉も製粉メーカーと組合で独自開発したことで、品質や味が安定するようになった。
沖縄の日本復帰後には、そば粉を使わない沖縄そばに対し、公正取引委員会から「『そば』と表示してはならない」と呼称に対する指摘を受けた。それも組合の力で「本場沖縄そば」を特殊名称として登録し、沖縄そばの「存続危機」を乗り越えた。
現在、新型コロナウイルス感染症という危機が業界を襲う。出荷の半分を占めていた食堂などでの消費が失われ、小規模の製麺事業者は死活問題に直面する。
外出自粛や臨時休校で「巣ごもり需要」が増加したこともあり、スーパーでの販売は落ちていない。とはいえ、長引く外食需要の落ち込みを補うには、さらなる県民の家庭消費に期待するしかない。焼きそばやパスタ、サラダなど調理の応用も提案している。
稲嶺理事長は「麺にかつお節と豚骨でだしを取ったスープというシンプルな料理だからこそ、毎日食べても飽きがこない」と胸を張った。(玉城江梨子)