モーグルを競技として始めたのは、小学5年生、11歳のころ。しかし翌年に初出場した全日本選手権でいきなり優勝して、頭角を表した。
「モーグルがオリンピック正式種目となったのは、私が15歳のときのアルベールビル大会(92年)からでした。でもその前年に《’98年冬季オリンピック開催地が「長野」に決定!》という報を耳にしたときから《長野オリンピックに出る!》と決めていたんです」
そして、女子モーグル日本代表として、’94年のリレハンメルオリンピックに17歳で初出場。
「ノルディック複合団体で金メダルを獲得した荻原健司さん(50)たちや、スキージャンプ団体で銀メダルを獲得した原田雅彦さん(52)たちと同じ宿舎でしたので、先輩方の輝きがまぶしく見えましたね。『長野も一緒に出よう!』と声をかけていただきました。自分のなかではもう、《出る》ことは規定路線でした。そのときすでに《長野でベストを尽くしたい。後悔しない滑りをしたい》という気持ちで日々練習に臨んでいたんです」
それには、長野オリンピック開催前年の’97年7月に21歳の里谷さんを襲った「父の死」が大きく関係しているようだ。
「父は52歳の若さで、がんで旅立ってしまいました。亡くなった直後から《父にオリンピックを見せてあげたい》という気持ちが強くなったんです。親としてずっと見守ってきてくれて、私がオリンピックで活躍することを、誰よりも楽しみにしてくれていましたので、父の無念を晴らしたい気持ちが私にはありました。試合時間わずか『30秒間』というモーグル競技で、『終わって後悔したくない!』という一心でした。準備できること、やるべきことはすべてやったんです」
しかし、気持ちを整理したつもりでも、その都度、悲しさや、寂しさ……弱冠21歳の気持ちは、本番直前まで揺れ動いていたのだと、里谷さんは打ち明ける。
「試合前までは、《お父さん、どこかで見ていてくれるかな》と思い巡らせていた。そして試合当日は、《(近くに)いる気もするな。でも、目に見えないのが寂しいな……》とかね。いろんな思いが混じりつつ、行ったり来たり、していました……。試合当日は、レース20分前くらいになって気持ちが乱れて、泣いてしまったくらいでした。でも、スタート位置に立つときには、自然と真っさらな気持ちになれたんです。……滑り終わって『金メダル』の瞬間は、夢を見ているような感覚でした。父が取らせてくれた金メダルだったのかもしれません」