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「来日を決めたころ、練習拠点であるカナダのクリケットクラブのリンクは新型コロナの影響で閉鎖されてしまいました。日本でアイスショーに出演する予定があったのですが、カナダでの練習は難しいということもあってブライアン・オーサーコーチと相談し、日本で練習をすることにしました」

 

コロナ禍での練習の困難さについてこう語るのは、フィギュアスケートのエフゲニア・メドベージェワ選手(20)だ。16、17年の世界選手権で優勝、18年の平昌五輪では銀メダルに輝いたロシアを代表する選手だ。

 

6月5日~7日まで、新横浜スケートセンターで開催される予定だった「美少女戦士セーラームーン Prism On Ice」に向けて日本で練習を重ねていた彼女に、埼玉県内のスケートリンクで話を聞いた。

 

日本への入国後、都内のホテルで2週間の“自主隔離生活”を送っていたというメドヴェージェワ選手。その後、入国制限によってロシアに帰国できなくなった彼女が練習場所として選んだのは青森だった。

 

「関係者や支援者の方々が探してくださり、青森の八戸にあるリンクで練習ができることになりました。この春にオープンにしたばかりというリンクはとても素晴らしく、充実した練習ができました。環境もよく、浜辺の景色は心に残っています。母は『ウニが美味しい!』と言って、喜んで食べていましたが、私はウニが苦手なんです(笑)。日本に来てよく食べるのは、大好きな焼肉。モスクワに韓国の有名な焼肉チェーンの『ハイト』が一軒だけあるんですが、よく友達と一緒に食べに行きます。肉食系ですね(笑)」

 

八戸市との縁が深い日本選手といえば、五輪2連覇を果たした羽生結弦選手(25)。東日本大震災が起こった11年、ジュニア時代の羽生選手が練習拠点としていた仙台のリンクが使用できない事態に。そんな時に、練習場所を提供したのが、八戸市にあるリンク「テクノルアイスパーク八戸」だったのだ。

 

メドヴェージェワ選手が練習をしていた新リンク「フラットHACHINOHE」の4月3日から行われるこけら落とし「スターズ・オン・アイス」公演には羽生選手も出演する予定だった。

 

同じブライアン・オーサーコーチ(58)の門下生でもあり、ゆかりの地で練習をしていた彼女は羽生選手についてどう思っているのだろうか。

 

「羽生選手と同じリンクに立つことは、おそらく全世界のフィギュアスケート選手の夢だと思います。一緒に練習していると、彼から学ぶことが非常に多く、私にとっては有意義な時間で、プラスになることが多いです。彼はものすごく気が強くてストイックな選手。特に18年の平昌五輪は、羽生選手の強い精神力がなければ、あそこまでの演技はできなかったでしょう。フィギュアスケート選手としてだけではなく、アスリートとしても世界有数の強さを持った素晴らしい選手だと思います。カリスマ性もあり、人間としても心の強さを感じる、尊敬できる選手です」

 

またメドヴェージェワ選手は、4回転ジャンプが主流となりつつある激動の女子フィギュア界についても闘志を燃やしていた。

 

「いまロシア選手の何人かが4回転を飛んでいますが、非常に年齢が低い選手。自分が同年代のときに、4回転を試したことはありますが、当時は女子選手が4回転を飛ぶトレンドではなかった。プログラムの後半に3回転+3回転のコンビネーションを飛べば高得点が出たので、世界選手権で2度も優勝ができました。当時はコーチも4回転が必要だとは思っていなかったので、敢えて飛ばなかったのです。もし、タイムスリップをして15歳の若い身体に戻れば、おそらく練習をすれば飛べたと思います。でもいまの私は4回転を飛ぶ年齢ではありません。ただ、試合に出たら、もちろん勝ちたいですし、その気持ちで戦っています」

 

気になるのは、22年の北京五輪。再び五輪の舞台で表情を華麗に舞う彼女の姿は見られるのだろうか。

 

「私は現役の選手なので、将来については何も否定しません。ただ五輪はまだ1年半も先で、何か計画があるわけではありませんが、毎日の積み重ねが大事だと思っています。現役選手としては、身体がどこまで持つのかはわかりません。ただ、20年後の姿を頭の中で描くと、自分は必ずフィギュアスケートと関わっている、繋がっていると。フィギュアスケートからモチベーションやインスピレーションを感じていますし、私の人生、そのものですから」

 

このインタビューの数日後には日本を離れ、練習拠点へ戻って行ったメドベージェワ選手。数々の困難を乗り越えてきた彼女だけに、1年半後、北京五輪のリンクに立っている姿が見られる気がしてならない――。

 

(取材・文:巴康子/撮影:福田ヨシツグ)

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