11年2月、京子がエースとなる新団体『ディアナ』のプロテストを受け、スクワット1千回のノルマをクリアして合格。
「中学卒業後、すぐに入寮しました。ディアナは駒沢に道場があり、歩いて20分ほどのところに一軒家の寮がありました。私はそこで、当初は外国人の選手と22歳の練習生と、3人で寮生活を始めました。2人はすぐいなくなってしまいましたが……」
寮では同期だけの生活だったが、先輩レスラーの洗濯をはじめ、雑用の毎日が待っていた。
「プロレス界の厳しさは雑誌を読んで判っていたので、『すごくイヤだ』ということはありませんでした。ただ、中学を卒業してすぐのことですので、世間知らずというか……最初、洗濯機の使い方も、洗剤の区別もわからず、柔軟剤と液体漂白剤で洗濯物を洗っていました(笑)。ぜんぜんフツーに洗えるんですよ! 靴も柔軟剤で洗っていました。『なんで泡立たないんだろう?』とは思ったんですが(笑)」
新弟子時代のSareeeは、よく先輩の試合道具を忘れて怒られたという。
「しょっちゅうでした。ディアナは付人制で、私は京子さんと伊藤さんの付き人をしていたんです。旗揚げ当時は所属選手が7人いて、プラス新人の私で計8人。しかし、途中でちょうど中間世代の先輩方がひとりずつ抜けていくことになって、結局、20年以上先輩の京子さん、伊藤さんと、ド新人の自分しかいなくなった。ひとりで練習と雑用もしていました。いま思うと『すごいことやっていたなあ』とは思います」
デビュー戦は11年4月17日、東京・ディファ有明での里村明衣子(現・センダイガールズプロレスリング代表)戦。里村といえば、いまも女子プロ界のリーダーとして君臨するトップ選手だ。翌月にはアジャコングなど、押しも押されもせぬトップどころとの対戦をデビュー1年目で経験できたのは、京子ら首脳陣の期待の大きさにほかならないだろう。
そうしてリングの上では順調にキャリアを積んできたSareeeだったが、20歳を過ぎるころ、ある壁にぶち当たった。
それは、後々トップを取る選手が、伸び悩む時期には必ず抱え、悩みながらもなんらかの結論を得ていくという、プロセスとしては重要な“葛藤”であった。
「それまで『先輩の言うことは絶対だ』と思ってやってきましたけど、反発したくなる気持ちが出てきたんですね。デビュー5年を迎える年でした。ある程度、キャリアを積んできたつもりでしたし、団体のためにできることを全力でやってきたつもりでした。だから、『反発』というか、すこし大人の事情もわかるようになってきて、『それって違うでしょ?』という疑問が芽生えてきたんですね……」
17年2月、21歳の誕生日を前にして、Sareeeは「女子プロレス界のトップになりたい」というステートメントでディアナを退団することになる――。
<中編:アジャコングから流血の洗礼…Sareee語る世界進出までの試練 へ続く>
(取材・文:鈴木利宗)