■父が亡くなったとき造園業を引き継いだのは母だった。女手一つで引き受けた芯の強さ
「姉ちゃんは頭、ボクは体で勝負する」
これが、10代のころの新庄の口グセだった。悲願の甲子園出場こそならなかったが、卒業後は阪神タイガースへ入団し、すぐに女性ファンが押しかける人気者となる。
息子の球界での活躍を誰よりも喜んだのが英敏さんだが、自営業の傍ら組合の仕事もしていたことは、あまり知られていない。一緒に活動していた「福岡県建設労働組合(福建労)」の男性職員は、
「大工、左官や新庄さんのような造園業など、現場の労働者の組合です。無償で気苦労も多く、役員のなり手もいないんですが、英敏さんは『じゃあ、オレがやるよ』と引き受けてくれました。それもイヤイヤではなく、『どうせやるなら楽しくな』と言いながら」
人柄をしのばせる、こんなエピソードがある。福建労では、組合の会合の出欠を確認するのに、ずっと名簿欄に○×で印を付けていた。ところが、英敏さんは言った。
「この×はダメやろ。人に×を付けるようなことをしたらいかん。欠席なら、そのまま空欄か、ちゃんと欠席と書いたほうがよか」
男性職員は、つくづく英敏さんらしいと感じたという。
「そんな思いで周囲と接していたから、あれほどみんなに慕われ、人望があったのだなと。人の悪口は絶対に言わず、会議で意見が煮詰まったときにも、英敏さんが『ダメなものはしょうがない。それより一緒に前に進む手立てを考えよう』と。それで、どんどん組合の雰囲気もよくなっていったんです」
それから、当時を思い出すようなまなざしで言った。
「今、剛志さんが、日ハムの監督になられ、ビッグボスとしての斬新な取り組みで、選手もファンも盛り上げて話題になっていますね。剛志さんがやっているのは、まさに、お父さんが以前、うちの組合でやっていたことと同じです。息子さん同様、英敏さんも組合内で、明るくみんなを盛り上げていたことを思い出しながら、剛志さんの采配ぶりを眺めています」
とはいえ、のちには教育論の本も出す英敏さんだが、組合内で、自慢の息子について語ることはほとんどなかったという。
「剛志さんが阪神からメジャーに行き、帰国後も日ハムで優勝して日本一という、まさにスーパースターの時代にも、自分からは『あの新庄剛志の父親だ』とは言わなかったんです。ただ、剛志さんがバリで始めたというスプレーアートを送ってきたときは、うれしそうにコピーして、みんなに配っていました」
そんな英敏さんが、食道がんにより70歳で亡くなったのは11年夏のこと。その後、家業を引き継いだのが文子さんだったことに、組合員たちは驚いたという。
「女手一つで造園業をやっていくわけですから、責任感のある女性だなと。いつもは夫の後ろに一歩下がって控えている印象でしたが、実は芯の強い女性なんだと思いました」
新庄が小学校に上がるころから一家と交流のある知人女性も取材に応じてくれた。新庄が姉のために球界復帰を決意したことについて、
「あの子らしい。剛志君は、自分よりもまわりの人を励ましたり、元気にしたいと考える子。おおらかな明るさはお父さんから、芯の強さやまじめさはお母さんからと、両親のいいとこどりをして生まれてきたんですね」