■「監督を絶対に甲子園に連れていきたい」由伸の頬を流れる涙でナインも嗚咽
高校野球には2つの残酷がある。苦楽をともにした選手も、メンバー選考ではライバルとなる。そして、勝っても負けても、夏で別れが訪れる。だから、石原監督はより一層の結束を訴えた。
「ベンチ入りの20人を決めた後、最後の遠征で大分に行きました。そのとき、選手たちがまだ遠慮し合っていた。全力疾走しない子がいても、誰も何も言わないんです」
夜のミーティングで、石原監督は思いの丈をぶつけた。
「もっとお互いが気持ちを伝え合おう。ケンカしてもいいから感情的になって、ガムシャラにやろう」
すると、由伸が泣きじゃくりながら大声で叫んだ。
「監督を絶対に甲子園に連れていきたいです!」
頬を流れる涙を見て、ナインも泣き崩れた。部屋中に嗚咽が連鎖した。
夏の県大会、優勝候補の都城は3回戦で宮崎商に0対2とリードを許す。9回2死、打席に立った由伸はセカンドにゴロを転がすと、1塁へ頭から飛び込む。砂煙のなか、無情のサイレンが鳴り響いた。
「ユニホームをドロドロにするタイプではないので、驚きました。彼も私も、みんな号泣しました。1年のころ、由伸は感情を表に出さない子でしたけど、2年半で別人のように変わりました」
甲子園の土は踏めなかったが、都城高で由伸は精神的にもプロで活躍できる素養を培った。かつての球界最速男・山口和男スカウトがほれ込み、由伸はドラフト4位でオリックスに入団する。このとき、大谷翔平と高校時代に日本代表でバッテリーを組んだ中道勝士さんも、オリックスに指名された。入団会見で由伸と初めて会うと、質問攻めを受けた。
由伸:大谷さんって、どんな真っすぐなんですか?
中道:最高154キロで速いんやけど、当時は藤浪(晋太郎)の真っすぐのほうが怖かったなあ。
由伸:変化球は何を放るんですか?
中道:スライダーがすごかった。ホームベースの端から端まで曲がってたな。
由伸:(遠征中に)練習していないとき、何をしてましたか?
中道:常にストレッチしてたで。本も読んでたなあ。同級生だけど、すごいと思ったな。
由伸:どんな本ですか?
中道:体のメカニズムとか栄養に関する本だったかな。
「貪欲さがズバ抜けてましたね。この年のドラフトは14人中9人が投手(育成含む)でしたが、唯一、大谷について聞いてきました」
春季キャンプに入ると、酒井勉・育成コーチは精神面の成熟度にも感心した。
「とにかく落ち着いていました。高校生の場合、1の段階にいるのに10の段階に話が飛んでしまう子が多い。『僕は絶対にエースになります』とかね。でも、由伸は『1軍で活躍するために、こういう練習をしっかり積み重ねたい』と今の立ち位置を把握していました」
中道さんは「いいボールを投げると思ったけど、今のようなすごい投手になるとは想像できなかった」と話す。しかし、5月に2軍で試合形式のバッティング練習をしたとき、由伸の変化を感じた。
「衝撃でした。ボールの質が格段によくなっていた」
その裏には極秘のトレーニングがあった。週1日のオフ、起床したばかりの中道さんが寮の部屋からエントランスに目をやると、由伸が出かけていった。
「毎週、朝7時くらいでしたね。のちのち聞いてみると、トレーニングに行っていたそうです。当時から、自主練のときにやり投げをしていた記憶があります」
オリックス入団が決定後、鈴木さんは矢田修トレーナーを紹介していた。由伸は矢田さんのもとを訪れ、指導を仰いでいたようだ。
「私が監督をしているボーイズリーグのチームに矢田先生が来てもらえるようになってからは、選手の故障がなくなったんです。由伸がプロで酷使されてケガしたら大変だと不安になったので、本人に勧めました」
体の重心を軸に考え、体内の力を重視する教えを授かった由伸は、2軍で圧倒的な成績を残す。寮生活に慣れると、先輩たちとの接し方も変わってきた。
「最初『中道さん』と呼んでいたのに、ある日突然『ミッチー』になってました(笑)。朝、寮で会うと『おはようございます』じゃなくて、『はーい、ミッチー。おはよう!』って。由伸って、ホント鼻につかない子なんですよ。憎めないし、かわいらしい。弟のような感じです」
野球に邁進しながら、オフには釣りも楽しんでいた。
「『稼ぎたい』とか『いい車に乗りたい』という話もしてました。1軍の選手が2軍の練習場に来ると、駐車場を見て『金子(千尋)さん、いつも車違うよね。すごいなあ』とうらやましそうに言ってましたね」
’17年8月20日のロッテ戦で、由伸は1軍デビューを果たす。勝ち星には恵まれなかったが、先発で5回1失点と上々の出来だった。だが、本人の感覚は違った。翌日、酒井コーチに初めて弱音を吐いた。
「僕、この世界でやっていけません。今のままだと肩やヒジが壊れます」
酒井さんは「今後、プロ野球でやっていくためにどうする?」と優しく語りかけ、故障しないために「フォームを見直す」「トレーニング方法をアレンジする」「球種を増やす」と3つの提案をした。
そのシーズンオフ、由伸は矢田さんのもとで日々熱心に練習に取り組み、変貌を遂げた。
だが、周囲からは批判的な声が多数を占めた。高卒1年目でプロ初勝利を挙げ、順風満帆に見えたため、首脳陣から「フォームを変える必要はない」と猛反対に遭った。やり投げやブリッジという目新しい練習方法も「ケガにつながる」と危険視された。四面楚歌になった由伸に、酒井さんは「その理論を教えて」と語りかけた。
「あのクレバーな由伸が取り組むんですから、相当な理由があるんだろうなと。『新しいフォームだと、肩やヒジに負担がありません』と話していたし、自分の頭で考えて理解しながら取り組んでいる。これなら大丈夫だろうと。1時間以上しゃべっても、『もっとあるんです』と話し足りない様子でした」